野村胡堂 銭形平次捕物控(巻十三) 目 次  捕物仁義  禁制の賦  忍術指南  二人浜路  捕物仁義     一  江戸開府以来といわれた、捕物の名人銭形平次の手柄のうちには、こんな不思議な事件もあったのです。——これは世に謂《い》う捕物ではないかも知れませんが、危険を孕《はら》むことにおいては、冷たい詭計《きけい》に終始した捕物などの比ではないといえるでしょう。 「親分ッ」  飛込んで来たのは、ガラッ八の八五郎でした。 「何というあわてようだ。犬を蹴飛ばして、ドブ板を跳ね返して、格子をはずして、——相変らず大変が跛足馬《びっこうま》に乗って、関所破りでもしたというのかい」  平次は朝の陽ざしを避けて、冷たい板敷をなつかしむように、縁側に腹ん這いになったまま、丹精甲斐のありそうもない植木棚を眺めて、煙草の煙を輪に吹いておりました。 「落着いてちゃいけねえ、いつもの大変とは大変が違うんだ、ね、親分、聞いておくんなさい」 「大層な意気込みだね、手前《てめえ》の顔を見ていると、——一向大変栄えもしないが、一体どんなドンガラガンを持って来やがったんだ」  平次はまだ庭から眼を移そうともしません。この姿態《ポーズ》のまま、路地で犬を蹴飛ばしたことも、ドブ板をハネ返したことも、格子戸をはずしたことも気が付いていたのでしょう。 「親分、縄張り内から謀叛人《むほんにん》が出たらどうします」  八五郎は息を弾ませながら、鼻の上の汗を平手で撫で上げました。 「何だと?——今の世の中にそんな馬鹿なことがあるものか。もっとも、由比の正雪なら牛込|榎町《えのきちょう》よ、丸橋忠弥は本郷弓町だ、縄張り違いだよ、八」  平次はまだこんな洒落をいっているのです。 「そんな昔話じゃねえ、謀叛人が生きていて、町内の銭湯で毎日銭形の親分と顔を合せるとしたら、どんなもんで」 「いやな事を言いやがる、その謀叛人はいったいどこの誰なんだ」 「金沢町の素読《そどく》の師匠皆川半之丞」 「何だと?」  平次は起き直りました。  一年ばかり前に引越して来た、浪人者皆川半之丞、美男で、人柄で、まだ三十そこそこの若さを、何をするでもなく、世捨人のように暮しているのが、銭形平次の第六感に、何かの印象を留めずにはいなかったのです。 「ね、親分、そう聞くと思い当るでしょう。子供は嫌いだからといって、寺子《てらこ》はみな断わってしまった癖に、夜は大の男を四五人も集めて『子曰《しのたまわ》く』の素読の稽古《けいこ》だ」 「……」 「それは不思議でないにしても、弟子は一人残らず他所《よそ》の者で、町内の若い者が束修《そくしゅう》を持って頼みに行くと、家が狭いとか、隙《すき》が無いとか、何とかかとか言って追っ払われる」 「フーム」 「そのくせ、弟子どもと一緒に夜更けまでゴトゴトやっているそうですよ。謀叛人でなきゃ、贋金造《にせがねづく》り、そんなことじゃありませんか、親分」  ガラッ八の鼻は少しばかり蠢《うご》めきます。この鼻がまた銭形平次に取っては、千里眼順風耳で、この上もない調法な武器だったのです。 「贋金造りにしちゃ、暮しが楽じゃない様子だ」 「だから、謀叛人、綺麗な顔はしているが、とんだ大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》じゃありませんか」 「……」 「それに、あの妹のお京というのがあんまり綺麗過ぎますよ。妹だか女房だか知らないが、日中は二人家の中に引っ込んだ切り、滅多なことじゃ天道様《てんどうさま》の下に顔も出さねえ」 「それが口惜しかったんだろう」 「ヘッ、お察しのとおりといいてえが、謀叛人の妹に思いをかけちゃ、笠の台があぶねえ」  ガラッ八は平掌《ひらて》でピシャリと自分の頸筋を叩いて、ベロリと舌を出しました。 「じゃ、どうしろと言うんだ。いくら十手捕縄を預るこちとらでも証拠も引っ掛りもない者を、いきなり縛るわけにも行くめえ」 「そこは親分の働きで——」 「馬鹿なことを言え」 「それに、あの家から、ときどき煙硝《えんしょう》の匂いがするそうですよ、隠し鉄砲は遠島だ。それだけでも何とかなりゃしませんか」 「待て待て、もう少し考えてみよう、うっかり手を付けて恥を掻いちゃならねえ」  平次も皆川半之丞兄妹の日頃の様子から、ようやく重大なものを感じた様子でした。     二  その晩、平次はガラッ八をつれて、皆川半之丞の浪宅を訪ねました。 「どなた様で?」  三つ指を突いて迎えたのは妹のお京、町内の若いのが、顔を一と目見るだけのことに、三晩湯屋の前を張っていたというピカピカする娘です。  何となく貧しげな木綿物ですが、折目の入った単衣《ひとえ》を着て、十九、二十歳《はたち》がせいぜいと思われる若さを、紅も白粉も抜きの、痛々しいほど無造作な髪形、——それから発散される素朴《そぼく》な美しさは、妙にうら悲しさを感じさせる種類のものでした。 「御町内の平次ですが、お目にかかって、お願い申し上げたいことがございます」  平次は精いっぱいの古文真宝《こぶんしんぽう》な顔をします。 「しばらくお待ちを——」  スーと引込む娘の後姿、浅間な浪宅が御殿に見えて、裾を引いたお女中が、お奥ヘ行くような気がして、後ろの八五郎はツイ鼻の下を長くします。 「大したものだね、親分」 「しッ」  平次は袖を払いました。  間もなく二人は次の間に通されて、ぬるい茶を啜《すす》って待っていると、 「平次殿ではないか——改まって、どんな用事だ」  主人《あるじ》の皆川半之丞、煙ったい顔に、薄笑いを浮かべて来ました。蒼白い顔と、華奢《きゃしゃ》な身体を見ると、両刀は手挟《たばさ》んでも、武芸などとは縁の遠い男に見えますが、その代り眼の鋭い、鼻の高い、細面の唇のよく締った、いかにも知恵と意志を思わせる顔立です。  浪人者といっても、まだ三十そこそこ、よく湯屋や往来で見かけて、目礼を交《かわ》す顔ですが、鈍い行灯の灯《あか》りに対して、平次は改めて自分の観察を整理しました。 「ほかじゃございませんが、一人弟子に取って頂きたい人間がございますが——」 「はて?」 「この野郎でございますよ。御存じでしょうか、八五郎というんで。世間並のような顔をしていますが、からっきし訳の解らねえ人間で、——こんな野郎でも、『子曰《しのたまわ》く』をちょっぴり教えて頂いたら少しは人間らしくなろうかと、こう思いましたんで、ヘエ——」  平次は後ろの方ですっかりむくれているガラッ八の顔を尻目に、こんな調子で頼み込むのでした。 「それは困るな、私は新しい弟子を取らないことにしているんだが」 「でも、ございましょうが——」 「今来ているのは、みな三年越しの弟子ばかり、引越して行く先々へ跟《つ》いて来るから、断わるにも断わり切れない」  皆川半之丞はまったく困《こう》じ果てた様子です。 「そうおっしゃらずに同町内の誼《よし》み、御面倒でもございましょうが、人一人目鼻を明けてやって下さい。なア、八、手前《てめえ》からもよくお願いをしな」 「ヘエ——」  八五郎は、モゾモゾと頸筋を掻きました。あまり、子曰くに気の乗る顔ではありません。  皆川半之丞は、再三再四ことわりましたが、平次はそれに押っ冠せて、根気よく、頼み込み、とうとう半刻ほど経った頃、 「それでは、二三日来てみなさるがいい。最初から大学や孝経でもあるまいから、庭訓往来《ていきんおうらい》でもやりましょう」  皆川半之丞の方から折れてしまいました。 「こうなりゃ、何だって構やしません。庭訓往来なんてケチな事をいわずに、阿呆陀羅経《あほだらきょう》でも何でもやっておくんなさい」  ガラッ八は、殺さば殺せといった調子でした。 「馬鹿野郎、阿呆陀羅経って、奴があるか、——こんな解らない野郎でございます、何分よろしく願います」  平次は、一生懸命に頼み込んで、マゴマゴするガラッ八を促《うなが》し、いずれ稽古は明日の晩から、ということにして引揚げました。 「驚いたぜ、親分」  外へ出ると、ガラッ八は精いっぱいの酸っぱい顔をして見せるのです。 「驚くことがあるものか、いい序《ついで》だ、しっかり学問をして置くがいい」 「学問は気が乗らねえが、——あの娘は毎晩顔を見せるかしら?」 「馬鹿野郎」 「そんな役得でもなきゃ、十手捕縄御返上だ。『子曰く』なんか持薬にするような、悪い病《やまい》はねえ」 「黙らないかよ、——呆れた野郎だ」  二人はしばらく黙って歩きました。いつの間にやら、皆川半之丞の浪宅を含む街の一角を、月の浮かれたように一と廻りしていたのです。 「右隣は長崎屋幸右衛門、左は川岸だ」  平次は皆川半之丞の浪宅を押し潰しそうに、街の四分の一を占めて聳《そび》ゆる、御金|御用達《ごようたし》兼神田両替組頭、長崎屋幸右衛門の豪勢な家を振り仰ぎました。 「長崎屋のお喜多も十九だが、——あの娘と比べちゃお月様とすっぽんだ」  ガラッ八はほかの事を考えております。 「そういったものじゃあるめえ、お喜多も町内で五本の指に折られる娘だ、——あの娘が少し綺麗過ぎるんだよ」 「ヘッ、娘やお月様は綺麗過ぎたって腹の立つものじゃねえ」 「何を下らない、——ところで、あの皆川兄妹に逢って、何か気の付いたことはなかったかい」  平次は自分の家の方へ足を向けながら、軽い調子で問いかけました。 「二人ともいやにお上品で綺麗だという外にはね、——同じ武家でも、あんなのは、舞台へ出て来る武家のようじゃありませんか」 「それにしちゃ、手が荒れているとは思わなかったかい、八」  平次は大変なところへ眼をつけていたのです。 「貧乏な浪人暮しで、下女も飯炊《めした》きも置かなきゃ、娘の手も荒れるでしょうよ」  ガラッ八は少しばかりセンチメンタルになりました。 「娘はそれで解るとして、——あの主人の手はどうだ、ありゃ武家や町人の手じゃねえ、百姓か職人の手だ」 「……」 「いろいろ面白いことがありそうだよ、少し当ってみよう、——ところで、稽古の始まるまでまだまる一日あるわけだから、その前にあの兄妹の素姓と、近所の噂を聞いて置くとしよう。頼むぞ、八」 「ヘエ——」  八五郎は両手を揉《も》みました。相手が綺麗なだけに、何か武者顫いみたいなものを感じます。     三 「親分、驚いたの何のって——」  八五郎はまたドブ板を跳ね返して、飛込みました。 「俺の方が驚くよ、そう毎度格子をはずされちゃ」  平次は相変らず落着いていります。 「それどころじゃねえ、——今度はどんな事があったと思いますッ」 「変な声を出すなよ、馬鹿だなア」 「あの皆川半之丞という、浪人者が教えてくれるかと思うと、大将は四五人の旧い弟子と奥の一と間を閉め切って立て籠り——」 「この温気《うんき》にか?」 「あっしの師匠は、ヘッ、ヘッ、妹のお京さんだ。教えてもらった書物はモーギューてんですぜ。ヘッ、ヘッ」 「大層むずかしいものをやりゃがったな。蒙求《もうぎゅう》は荷が勝ち過ぎるだろう、少しは覚えて来たか」 「いいえ」  八五郎はブルブルンと長い顎《あご》を振りました。 「一つも覚えちゃいねえのか」 「ヘッ、お京さんの可愛らしい唇の動くのを見ていたんだ。ときどき書物から顔を挙げて、あっしの目と目が逢うと、ボーッとしたぜ」 「馬鹿野郎」 「空耳《そらみみ》で聞くんだから、モーギューだってヒヒンだって少しも驚かねえ」 「牛や馬の声じゃねえ、呆れた野郎だ、それっ切りか」 「これっ切りだった日にゃ、十手捕縄返上だ。ね、親分、モーギューは何にも覚えちゃいねえが、はばかりながら稼業の方はちゃんとやりましたよ」  ガラッ八は狭い単衣で膝っ小僧を包みながら乗出しました。 「何か聞き出したのか」 「お隣の長崎屋——あの万両分限の箱入り娘お喜多が、皆川半之丞と仲がよくなったのを、長崎屋の主人幸右衛門が、貧乏浪人などは以ての外と、生木《なまき》を割いたのを御存じですかい」 「いや知らねえ」 「銭形の親分も、情事《いろごと》出入りには目が利かないネ」 「ふざけるな——探ったのはそれっ切りか」 「……」 「手前が妹に教わって、蒙求《もうぎゅう》を囀《さえ》ずる間、奥の一と間じゃ何をやったんだ」 「それが解らねえ、素読の声は愚か、人の話声も聞えませんや」 「呆れた野郎だ、娘の顔ばかり見ていたんだろう」 「もっとも、人の歩く音や、重い物を引摺るような音は聞えたように思うが」 「それが謀叛の証拠になるかも知れなかったんだ、何だって覗いて見ねえ」 「武士はそんな卑怯なことをするものじゃねえ——と言いたいが、実は娘が傍にひっ付いて、瞬《またた》きする間も離れなかったんで、ヘッ、ヘッ」  ガラッ八は平掌《ひらて》で長い顎を逆撫でにしております。 「手の付けようがねえ、——今晩は是が否でも奥の一と間を見るんだ、いいか、八」 「ヘエ——」 「娘が側を離れなきゃ、仮病《けびょう》を使うとか、調子が出なきゃ横っ腹を突き飛ばすとか——」 「誰ので? 親分」 「手前《てめえ》のを、手前の拳骨《げんこつ》でやるんだ、遠慮することはねえ」 「驚いたね」 「面喰って娘の横っ腹などを突き飛ばすんじゃないぞ、馬鹿野郎ッ」 「ウ、ヘエ——、今日は馬鹿野郎の食傷《しょくしょう》だ。ゆうべ夢見が悪かったよ」  ガラッ八は驚いて飛び出しました。 「用心しろ、デレデレしているととんだ目に逢わされるぞ」  平次の追っかける声に、ガラッ八はもう姿も見えません。昨夜の縮尻《しくじり》を取返して来る積りでしょう。  翌る日一日、平次は皆川半之丞の身許を調べました。最初は中国浪人という触れ込みだけ、どこの家中とも解らなかったのですが、やがて、皆川半之丞というのは偽名で、御家人崩《ごけにんくず》れか、旗本の冷飯食いか、とにかく、江戸侍に相違ないことだけは、見当が付いたのでした。  皆川半之丞の家に集まる四五人は、本郷から下谷へかけての堅気の小商人か、小旗本の奉公人で、下っ引に調べさせると、それが一脈の筋を引いていることは解りましたが、たった一日の探索では、それ以上の事は見当も付きません。  こんな時は鼻のいいガラッ八でもいてくれると、大いに助かるわけですが、残念ながらそれも、からかい過ぎて寄り付かず、気をもみながらとうとう三日目の夜になってしまいました。 「親分、皆川半之丞の家の横手に、こんなものが落ちていましたよ」  下っ引の一人が、小さい紙っ片《きれ》を拾って来たのは、そのまた翌る夜の亥刻《よつ》〔十時〕過ぎ。 「フーム」  それを読んだ平次は、煙管《きせる》の吸口を額に当てたまま、思わず唸りました。懐紙に、消炭でのたくらせた走り書きは、  親分、大変なことになったぜ、明日はきっと、鬼の首を取って帰る、外まわりの土に気をつけて下さい——  間違いだらけの仮名文字、ガラッ八名題の悪筆に紛れもありません。     四  それっ切りガラッ八は帰らなかったのです。皆川半之丞の浪宅へ、幾度か使いをやりましたが、二晩稽古に来たっ切り、あとは顔を見せない——という素気《そっけ》ない挨拶です。  一方皆川半之丞のところへ集まる四五人の弟子の身許を、一人一人|虱潰《しらみつぶ》しに調べさせた下っ引は、思いも寄らぬ不思議な事を聞込んで来ました。  黒門町から来るのは、小旗本某の用人、本郷三丁目から来るのは、以前旗本某に使われた小者、湯島から通う男は、旗本某の乳母《うば》だったという老女の倅《せがれ》。 「その旗本は何というんだ、愚図愚図しちゃいられない、大急ぎで訊いて来い」  平次は日頃にも似ぬ|あせり《ヽヽヽ》ようです。下っ引を二三人、尻を蹴飛すように出してやった平次は、深々と腕を拱《こまぬ》いて考え込みました。若くてイキのいい平次が、こんな分別顔をするのは滅多にないことですが、三日消息を絶ったガラッ八の身の上に、何か重大な危険が、襲いかかっているような気がして、さすがに不吉な予感に怯《おび》え続けていたのでした。  事件の全貌《ぜんぼう》は、皆川半之丞の素姓が判りさえすれば、わけもなく見透せるような気がしますが、いくら浪人でも、歴《れっき》とした二本差を、証拠も何にもなしに縛るわけに行かず、寺に戸籍のあった時代では、簡単に前身や身分を洗う工夫もつかなかったのです。  しかし、疑問を織り出している綾糸《あやいと》は、一カ所から繰り出されているような気もしないではありません。その大本《おおもと》を衝くことが出来さえすれば、何もかも一ぺんにほぐれて行くのかも知れないのです。  少なくとも四方へ飛ばした下っ引が帰って来れば、何とか目鼻がつくでしょう。困ったことに、この二三日、皆川半之丞の家に、弟子の集まる様子はなく、それを跟《つ》けて、巣を突き止める手段《てだて》もありませんが、暇にあかして詮索をしたら、疑問の旗本の名前くらいは捜り出せるかも知れないのでした。 (——ところで、土に気をつけろ——とは何のことだ)平次の胸にはガラッ八の下手《へた》な仮名文字が浮びました。  いくら考えたところで、この謎の文句ばかりは解りそうもありません。(これはやはり、ガラッ八の手紙のとおり、外廻りを見る方が早いかも知れない——)そう思い付いた平次は、人に顔を見られるのを憚《はばか》るように、翌る日の早朝、まだ街の往来のろくにない頃を選んで、皆川半之丞の小さい浪宅から、長崎屋の大きな溝、それにつづく自身番や、小商《こあきな》いの店のあたりを当てもなくグルグルと廻りました。 「おや?」  妙なものが、平次の注意を捉えました。踏み堅めた往来へ、ボロボロとこぼれている、真黒な土です。つまみ上げて掌《てのひら》で砕いてみると、江戸の往来の馬糞《まぐそ》と砂利をねり堅めたような土とは全く違ったもので、うんと空気を含んだ真っ黒な土くれですが、肥料の気《け》の少しもないところをみると、八百屋や近在の百姓衆が、商売物の荷や草鞋《わらじ》で運んで来た、田舎の土でないことも明らかです。  土は点々として、川岸につづきました。崩れた石垣の上から覗くと、そこには苫《とま》を掛けた船が一隻、人がいるとも見えず、上げ潮に揺られて、ユラユラと岸を嬲《なぶ》っております。 「……」  平次は思わず声を出すところでした。船端《ふなばた》には、先刻、街で見付けたと同じような土が一ぱい、苫の中にも多分それが積み込んであることでしょう。もし、ガラッ八の手紙に書いてある『土』がこれを指すのだったら?——平次は思わず伸び上って皆川半之丞の浪宅のあたりを見やりました。  視野を遮《さえ》ぎるのは長崎屋の巨大な棟《むね》、——その下には、巨万の富を護るために抱えて置くという、二人の浪人の住んでいる離室《はなれ》も見えます。     五  その時でした。急に街の空気が騒がしくなったと思う間もなく、 「親分、大変だッ——殺されましたよ」  下っ引の勝が飛んで来ました。鋳掛勝《いかけかつ》という中年男で、乾し固めたような小さい身体ですが、ガラッ八などよりは物事が敏捷に運びます。 「誰が殺されたんだ?」 「浪人者の妹ですよ、——お京さんといった、滅法綺麗なのが——」 「えッ」  平次は飛び上がりました。岡っ引として異常な事件に臨む緊張というよりは、女の児が、美しい人形を取り落して、微塵《みじん》に砕いた時の心持です。  二人は宙を飛びました。皆川の浪宅では、 「お、平次殿」  さすがに、真っ蒼になった主人の半之丞が迎えてくれます。 「お妹様が御災難だそうで——」 「見てくれ、平次殿」  皆川半之丞の案内で裏へ廻ると、狭い庭の植込の蔭に、さしも美しかったお京は、紅絹《もみ》の一と束のように、碧血《へきけつ》に染《そ》んでこと切れているのです。 「これは?」  平次もさすがに胸が塞がりました。血を失い尽して、真っ白になった小さい顔は、打ち砕かれた人形のような、この世のものとも思えぬ冷たく美しいものです。傷は後ろから浴衣《ゆかた》越しに突いた一と太刀、左乳の下へ突き抜けるほどの凄まじいもの。 「お心当りは、皆川様」 「何もない——」  半之丞は固く口を緘《つぐ》みました。 「血の凝まった様子では夜中前のようですが」 「そうかも知れない、が、私は早寝だから、何にも知らなかった。——今朝起きてみると、縁側の戸は開けたまま、朝陽がさし込んでいたが、多分、妹が朝の支度でもしている事と思い込んで、うっかり時刻を過ごしてしまった」  そう言う皆川半之丞の顔には、夕立雲のように深刻な悲しみが去来します。 「人に怨《うら》まれるようなお心当りは?」 「無い」  半之丞の調子は少し剣もホロロです。 「そう申しては何ですが、——御妹様はこの御器量で、さぞなにかという人も多いことでございましょう、殿方とのお噂などは?」 「とんでもない、妹に限って、そんな馬鹿なことがあるわけはない」  半之丞の口調は激越《げきえつ》でした。いい知れぬ忿怒《ふんぬ》が、サッとその秀麗な顔を染めるのでした。 「もう一つ伺いますが、御妹様は、旦那と本当の御兄妹なのでしょうか」 「ウム」  気むずかしくうなずく半之丞を、平次はもう追及する気もない様子です。 「恐れ入りますが、お家の中の様子を見せて頂きます」 「それは——」  引留めそうにする皆川半之丞の様子に構わず、平次はもう縁側から上がっておりました。入口の三畳、それに隣る六畳は、いつかガラッ八と一緒に通された部屋。そこにお京の床は紅い木綿の裏を見せて、淋しく敷き捨てたまま、枕の膨《ふく》らみ具合では、一度も寝なかったことが一と目で解ります。  その奥の部屋は、皆川半之丞が特別な弟子達を通す場所でしょう。主人の不満も、知らぬ顔に、平次の手はサッと唐紙を開けました。  そこは六畳のよく片づいた部屋。平次が期待したようなものは何にもなく、主人半之丞の床が部屋の隅に片寄せて、ザッと積んであるだけです。  平次もさすがにそれ以上は遠慮しなければなりませんでした。縁側に立ってみると、裏木戸へ通ずる庭がよく踏み堅められて、苔《こけ》一つ無いのが不思議といえば不思議です。それよりも平次の眼を驚かしたのは、狭い庭のあちこちに、撒《ま》いたように散っている一種の土くれでした。  この家の中をもっとよく捜したら? 平次は、そんな事を考えておりましたが、庭の死体もそのままにして、さすがに家探しもなり兼ねます。 「お知合いの方へ人をやりましょうか、皆川様」  平次は見兼ねて注意しましたが、 「いや、江戸には格別の知合いもない」  半之丞は、冷たく言い放って、妹の死体の側に、検屍《けんし》の済むのを待っている様子です。  大きな悲しみの去来する、この上もなく冷たい顔を、平次は世にも不思議なものに眺めていりました。ひ弱い肉体と、逞《たく》ましい知恵とを持っているらしい、この皆川半之丞の秀麗な頭から、秘密を観破することだけは平次も断念しなければならなかったでしょう。それは、平次がかつて経験したことのない、複雑な深さを持った顔です。  間もなく検屍が済んで、死体を部屋の中に運び入れ、町内の人達が、家主や月番を先に立てて、何くれと世話をしてくれました。が、不思議なことに、毎晩集まって来た、半之丞の弟子達も、身寄りの者もたった一人も顔を見せません。 「皆川様、——番所までお越しを願います」  思案に暮れた平次は、最後の切札《きりふだ》を投げました。たった半刻、この家から皆川半之丞を追い出して、存分に調べてみたかったのです。 「それは誰の指図だ」  半之丞の顔は冷たく引緊ります。 「その方が早く型がつきます、——御奉行所の召出しを待って、なにかと手間取っては、御妹様の仇討も遅れる道理ではございませんか」  平次は一生懸命です。町奉行や、与力の指図を待っていては、平次の力も今日の日に間に合いません。そうかといって、相手は身分あり気な二本差ですから、引っ括《くく》って行って、存分な家探しをするわけにも行かなかったのです。 「無用だ。——私は知っているだけの事は皆な言ってしまった」 「でも」 「私は葬《とむら》いの済まぬうちは、妹の死体を独りぼっちにしたくはない」 「でも、下手人《げしゅにん》を挙げなきゃなりませんよ。敵《かたき》を討たなきゃ、御妹様も浮ばれないというものでしょう」 「下手人を挙げさえすれば、この私に格別な用事はないのだな」 「それはもう、おっしゃる迄もありません」  平次も、ツイこういい切ってしまいました。 「それなら一向わけはないではないか」 「?」 「下手人は解っている。名札を置いて行ったも同様だ」 「?」 「銭形の平次と言われる者が、これほどの事が解らないはずはない」 「……」  平次は眼を見張りました。恐ろしい挑戦です。 「あれを見るがいい」  皆川半之丞の指さしたのは、お京の死骸の横たわっていた植込みの真上に冠《かぶ》さる長崎屋の土塀でした。  飛んで行ってみると、その土塀の上の瓦には、真夏の陽に渇いてベットリ血潮。 「……」  平次も今は一句もありません。皆川半之丞をここから追出して、ガラッ八の安否を確かめることに気を取られ、たったこれほどのことに気が付かなかったのです。 「昨夜妹を誘《おび》き出した曲者は、長崎屋の庭で妹を殺害し塀越しに死骸を投げ込んだのだ。六尺の土塀の上に付いた血や、植込みの躑躅《つつじ》の枝が折れて、生湿《なまじめ》りの土に深く型の付いたのなどは、その証拠だ」  恐ろしい半之丞の明察、——平次はお株《かぶ》を奪われてしばらく黙ってしまいました。が、やがて、心を落着けると、平次の日頃の叡智《えいち》が蘇《よみが》えります。 「下手人は左利きの男、力はあるが武家ではありません」  と平次。 「そのとおりだ。さすがは平次殿、それに一点の間違いもあるまい。長崎屋へ行って、左利きの力の強い男を捜すがいい、下手人はそれだ。多分まだ刃物を持っているかも知れない」 「……」  皆川半之丞の言葉を後に聞いて、平次は長崎屋の裏口から真っ直ぐに乗り込んで行きました。     六 「何? 岡っ引が入って来た? 左利きの力の強い男がいないかと言うのか」 「それなら拙者だ、この伊坂権内《いさかごんない》、左利きの上に三人力だぞ」  長崎屋にゴロゴロしている浪人者が二人、事あれかしと裏口から飛んで出ました。 「お武家方じゃございません、奉公人のうちに、そんな人はないでしょうか」  平次はおくれる色もありません。 「あったらどうする?」  と伊坂権内。 「番所まで来てもらいます」 「何?」 「昨夜庭の隅で人を殺し、土塀越しに隣の庭へ投り込んだ者があります」 「……」  二人の浪人者も、事態の容易ならぬのに黙りこくってしまいました。 「左利きで、力の強い奉公人に違いありません、——あッ、あの野郎だッ」  寄って来た人垣を抜けてコソコソと逃げる若い男、平次はそれを見とがめて後から追いすがりました。 「親分、私は何にも知りませんよ、とんでもない」  そう言いながらも必死と反抗するのを、引っ倒してパッと叩き伏せ、繰り出す早縄《はやなわ》が、蛇のように若い男の両手を後ろに縛り上げます。 「利吉、——とかいったね、神妙にするがいい、裾に血が付いているじゃないか」 「えッ」 「ハッハッハッ、そう言われて、自分の裾を見るところが正直だ、——番頭さん、この男の荷物を見せて下さい」 「ヘエ——」  老番頭の太兵衛もどうすることも出来ません。不承不承下男に言い付けて、奉公人の部屋から、古い竹行李《たけごうり》を一つ持って来させました。  縄付の手代利吉を、飛んで来た下っ引に預けた平次は、手早く行李を開けて、サッと目を通しました。少し乱雑に入れた仕着せに晴着、それに少しばかり臍《へそ》くりの入った財布。その下には、 「おや?」  書き損じらしい手紙が七八本。一々くりひろげて見ると、たどたどしい言葉で、思いの丈けをかき口説いた紋切型のものばかり、宛名は皆なお嬢様、——利吉より、となっております。多分書いてみたが、気がとがめて出さなかったのでしょう。 「こいつは、この男の筆跡《て》に違いないだろうな、番頭さん」 「ヘエ——」  付き付けられた手紙を、老番頭の太兵衛は呆気に取られて眺めておりましたが、やがて手代利吉の書いたものに相違ないことを認めました。 「手前《てめえ》は言い寄って弾かれた意趣《いしゅ》返しに、お隣のお京さんを殺しやがったろう、太い野郎だ」  平次はこの造化の傑作を台無しにした冒涜的《ぼうとくてき》な男の、ニキビだらけな顔を憎々しく見やりました。まだ二十二三でしょう。魯鈍《ろどん》で脂切って、何ともいいようのない無気味なところのある若者です。 「違いますよ、親分」 「今さら弁解《いいわけ》をしても追付くめえ、素直に申し上げてお慈悲を願え」 「違います、——そんなわけで殺したんじゃありません、私は、私は——」  利吉はシクシクと泣き出しました。 「何を言やがる。人一人洒落や道楽で殺せるわけはねえ。手前のような馬鹿に見込まれたのが、お京さんの因果《いんが》だ」 「親分」 「何が気に入らねえ、馬鹿野郎ッ」 「違いますよ、——お嬢さん、たった一と言、何とかおっしゃって下さい、私は、私は」  あらぬ方を見る利吉の視線を追って行くと、物蔭にチラリと白いもの、——長崎屋の娘のお喜多が、そこから凍るような視線を送っているのでした。 「あッ、なるほどそうか」  平次にも事件の成行が次第に呑込めます。利吉の手紙の宛名は、殺されたお京ではなくて、主人の娘お喜多だったのです。 「お嬢様、——私は処刑《おしおき》になっても本望ですが、——たった一と言、やさしい言葉をかけて下さい、——お嬢様、お願い」 「……」  未練男の焼き付くような視線に追われて、お喜多はツイと身体を隠しました。バタバタと、縁側を遠ざかる跫音。 「お嬢様」  それを見る利吉の眼からは、ドッと涙が湧きました。ピシリと鳴る縄尻。 「野郎ッ、歩けッ」  下っ引のダミ声が威嚇的に響きます。     七  夕光りが明神様の森にすっかり落ちてしまった頃、下っ引の鋳掛勝が帰って来ました。 「親分、解りましたぜ」 「何が解ったんだ、勝」 「あの浪宅に集まるのは、八千五百石の旗本で、駒込に屋敷のある、長井和泉守様の縁故の者ばかりですぜ」 「しめたッ」 「永井和泉守様は二年前に亡くなり、跡取《あととり》の鉄三郎様が三年前から行方不知《ゆくえしれず》で、今は和泉守の遠い伯父平馬様というのが後見格で、主人同様に振舞っていますよ。平馬様の子の平太郎という方が跡目相続するそうで——」 「そいつは有難い、——ところで、皆川半之丞というのは、永井和泉守様の何だ」 「それが解りゃ何もかも片づくが、それだけは解りませんよ」 「じゃもう一と息探ってくれ、皆川半之丞兄妹の身許だ、——兄妹じゃない、俺は夫婦だろうと思うが」 「ヘエ——」 「大急ぎで頼むよ」 「それじゃ、親分」 「ちょいと待ってくれ、手前は町内に顔を見知られていないから、この手紙を投り込んでくれ」  そう言いながら平次は、サラサラと一通。 「こりゃ、皆川半之丞宛ですね」 「永井家から出したようにしてある。この手紙をみると、いかな皆川半之丞でも、一刻は家を空けるよ」 「ヘエ——」  鋳掛勝は独楽鼠《こまねずみ》のように飛んで行きました。  それから煙草を二三服、懐中提灯《ふところぢょうちん》の用意をして外へ出ると、幸いにトップリ黄昏《たそが》れて、大して忍ばなくとも、人に顔を見られそうもありません。  皆川半之丞の浪宅の近所に網を張っていると、間もなく当の半之丞は、日頃の落着いた様子もなくせかせかと出て行きました。  それをやり過ごして、そっと滑り込んだ平次。二つの部屋には眼もくれず、いきなり裏木戸の方に向いた厳重そうな格子窓に手を掛けると、楽々とはずして中へ踏込みました。そこは三畳ばかりの板敷の納戸で、床板には何の変りもありませんが、隅に片寄せた渋紙《しぶがみ》をほぐすと、往来や、庭にあったような土が、ザラザラするほど畳込んであります。多分この渋紙を敷いて何かの作業をするのでしょう。  平次は懐中提灯に明りを入れると、一方の板戸をサッと開けました。中は一間の押入、床板二三枚は手に従って剥《は》がされ、その下に真っ黒な穴が、地獄の入口のように口を開きます。  平次は何の躊躇《ちゅうちょ》もなく入って行きました。穴は、三尺四方ばかり、粗末ながら頑丈な段々があって、二間ばかり降りると、今度は真っ直に横へ伸びております。  ムッとする土の匂いも、無気味な暗さも、もう平次を牽制《けんせい》しませんでした。長崎屋の方へ——五六間も入って行くと、何やら行手に蠢《うごめ》くもの——。  平次はハッと立止って、懐中提灯を突き付けました。 「八じゃねえか」  変り果てた姿ですが、ガラッ八の八五郎に紛《まぎ》れもありません。わずかに敷いた筵《むしろ》の上に、滅茶滅茶に縛られて、猿轡《さるぐつわ》にも及ばず、声を立てる気力もなく、ガラッ八の八五郎はピカリピカリと眼ばかり光らせていたのです。 「……」  ガラッ八の顔は激情に歪《ゆが》んで、口が声もなくフカフカと動きました。 「しっかりしろ、八、もう大丈夫だ」  平次はその縄を切りほどいて、赤ん坊を抱くように起してやりました。 「親分」 「何だ、八」 「ひどい目に逢わしやがったぜ、畜生ッ」  ガラッ八はこう言うのが精いっぱいです。 「どうしたんだ、——大急ぎで話してくれ、この穴はどこへ行くんだ」 「長崎屋の金藏《かなぐら》だよ、親分」 「謀叛人じゃなかったのか」 「皆川半之丞兄妹は、あんな優しい顔をしているくせに、大泥棒だ」 「そいつは知らなかった、大泥棒なら話は早い」  平次はガラッ八を助け起して、狭い穴の中ながら、どうやらこうやら引っ担ぎました。 「無礼者ッ」  不意に、穴一パイの霹靂《へきれき》が響きます。 「……」  ハッとして提灯を差向けると、出口を塞いだのは、主人の皆川半之丞。いつの間に帰ったか、一刀の鯉口《こいぐち》を切って、近寄らば目に物見せん構えです。  蒼白い顔は激怒に顫《ふる》えて、爛《らん》とした眼は、中腰になった平次と、その背に負われたガラッ八を睨み据えます。 「泥棒は何事だ、——皆川半之丞、人の物をかすめた覚えはないぞ」 「……」 「偽手紙《にせてがみ》でおびき出して、他人の家に忍び込む、その方こそ盗賊だろう。銭形平次とは言わさんぞ」 「待って下さい、皆川さん、——こうでもしなきゃ、八五郎を助ける工夫がなかったんだ、——差当り泥棒でないという言い訳、そいつを伺おうじゃありませんか」  平次も屈服していません。「言い訳などは大嫌いだ——」  苦り切る半之丞。 「でも、この穴は長崎屋の家の下まで行ってますぜ、土地の下だって他人の地所に違いないでしょう。——それでも言い訳が無用だと言うんですかい」  平次は少し反抗的になりました。 「なるほど、そういえば一応もっともだ、それでは冥土《めいど》の土産に聞かしてやろう、——皆川半之丞が、同志の手をかりて、この穴を掘ったわけは、こうだ」  穴の上と下、地獄の入口に相対したような三人は、懐中提灯の心細い灯りの中に、孕《はら》む殺気もそのまま不思議な物語を始めたのです。     八 「平次はいろいろ探索をした様子だから、大方の見当は付くだろう。駒込の旗本八千五百石、永井和泉守様の御跡取、たった一粒種の鉄三郎様は三年前十八歳で行方不知になられた。いろいろ手を尽したが、その所在の解らぬまま、和泉守様は嘆きのうちに御他界《ごたかい》、その後へ伯父の平間殿が入って後見していられる」 「……」  ——こういう皆川半之丞というのは、用人川波五六の子一弥、長く千葉の領地にいて、江戸屋敷に顔を見知った者のないのを幸い、妻のお京と相談して、二年越し、若主人鉄三郎の行方を捜しましたが、フトしたことから、万両分限長崎屋の土蔵の中に、厳重な囲いを作り、親類の癲狂人《ふうきょうじん》を預っているという名義で隠してあることを探り当てたのは一年前のことでした。  長崎屋は元長崎の商人で、厳禁の抜け荷を扱って巨万の富を積みましたが、それが露顕《ろけん》して、すでに磔刑《はりつけ》にもなるべきのところを、その当時長崎奉行の下役をしていた、永井平馬に救われ、その恩があるので、平馬の頼みを断わり兼ね、悪事と知りながら、和泉守遺子鉄三郎を隠して、平馬の永井家乗取り策の片棒を担ぐことになったのです。  平馬の子平太郎は当年十七歳、永井家家督相続の届を一年前から出してあるので、評定所の調べが済んで、鉄三郎が生死不明と決れば、改めて将軍家に御目見得の上、近いうちにも跡目相続、事態は急迫しました。  皆川半之丞の川波一弥は、長崎屋の隣の家をかり受け、最初は鉄三郎を盗み出すことを計画しましたが、腕っ節の強い浪人を二人まで雇ってある上、警戒厳重を極めて、非力の一弥ではどうすることも出来ません。  続いて、長崎屋の娘お喜多の浮気心を嗾《そそ》って、囲いの鍵を盗み出させようとしましたが、妹と触れ込んだお京は、その実半之丞の女房と覚られて、驕慢《きょうまん》なお喜多の妬心《としん》を煽《あお》り、少し賢こくない利吉を煽動して、鉄三郎救い出しの手引をすると騙《だま》してお京をおびき寄せ、庭で刺し殺して、土塀越しに投り込むようなことをしたのでした。 「この一条は拙者|畢世《ひっせい》の過ち、人出に掛って相果てた妻に対しても、面目ない。もっとも、一方では、永井家縁故の同志を集め、素読の稽古と振れ込んで、毎日地下に穴を堀りつづけ、あと一両日で、囲の下に掘り抜くという時、その八五郎とやらが弟子入りをして来たのだ——それをどう始末してよいものか、平次、お前の思案ならどうだ」  皆川半之丞の頬には苦笑いが淀《よど》みます。 「御尤もで、皆川様」  平次はあっさり合槌《あいづち》を打ちました。 「穴はもう主君鉄三郎様の囲いの下まで行っている。床板を下から打ち抜きさえすれば、何の苦もなく救い出せるのだ、——そこへこんな邪魔が入った」 「よく解りました。皆川様、御心持、一々御尤も、決して無理とは申しませんが、それほど相手の悪事が判っているなら、どうして大目付へ訴えて出られないのです」  平次は最後の疑問を投げ出したのです。 「永井家——東照宮様格別の思し召しで八千五百石を下し置かれた永井家が、断絶になってもよいと言うのか」 「……」 「これが表沙汰になれば、善悪ともに永井家の立行く道はない。いま無事に鉄三郎様さえ救い出せば、何とでも弁解の道は立つ、同志四五人命を惜しむ者はないが、斬込んで御府内を騒がさなかったのはそのためだ」 「……」 「——が、こうしているうちにも、平馬の子、平太郎の御目見得が済んでしまっては、六日の菖蒲《あやめ》だ」  その御目見得の日が、二三日の後に迫っているのです。皆川半之丞が、平次と八五郎を斬ってしまっても、ここで鉄三郎を救おうとするのも無理のないことでした。 「よくわかりました。——|あっし《ヽヽヽ》はお上の御用を勤める身体で、大地の上ではそんなことに御助勢は出来ませんが、天道様の届かない、土地の底の穴の中なら、お上のお目こぼしもあるとしたものでしょう、——一番今晩一と晩だけ、土竜《もぐらもち》の真似をして、皆川様御夫婦の忠義にお手伝いしましょう」  平次は大変なことを言い出しました。 「本当か、それは?」 「八、手前は穴の外へ這い出して待っていろ。皆川様、サア、御案内して下さい」 「親分、そいつは」  驚いたのは八五郎です。下へおろされて、あわてて平次の裾を掴むのを、 「心配するなってことよ、——手前は眼をつぶってりゃいいんだ、俺は皆川様の御人柄に惚れたんだ。安心して待っているがいい」 「ヘエ——」 「平次殿、それは本当か」  半之丞も少しつままれた心持です。 「本当も嘘もありゃしません。それで悪きゃ十手も捕縄も返上しますよ、——馬鹿の利吉に殺されなすった、——奥さんが可哀想だった、——その代りあっしが手伝って上げます」 「有難い、いずれこの礼には縛られてお前の手柄にしよう」 「とんでもない、穴を掘って縛られた日には、日本中の土竜《もぐら》は暮しが立たねえ」 「同志も世間を憚《はば》かって来ず、一人ではあの床板を破って、見張りの浪人を押え、鉄三郎様を救い出す工夫がなかったのだ、それでは頼むぞ、平次殿」  皆川半之丞は涙を拭いておりました。 「さア」 「行きましょう」  穴の中を用心深く進む二人、その後姿を見送って、ガラッ八はしばらく口も塞《ふさ》がりません。 「チェッ、物好きだね」  その晩。  長崎屋の雇い浪人、伊坂某は斬られ、囲いの中の鉄三郎は奪い去られました。しかし、事件は何もかも闇から闇に葬られて、それから三日目、永井平馬の一子平太郎が、永井和泉守相続人として、明日は将軍御目見得という時、三年前神隠しに逢って野州|二荒山《ふたらやま》の奥にいたという和泉守一子鉄三郎が江戸に立還《たちかえ》り、改めて家督相続を願い出で、後見人永井平馬は、家事向不取締の廉《かど》があって江戸を追放されることになったのです。 「親分、驚いたぜ、——御用聞がなぐり込みの片棒をかつぐなんて」  この頃は、ガラッ八もすっかり健康を取戻しておりました。 「シッ、黙っていろ、——これは御用聞の仁義さ。もっとも、穴の中で縛られていた手前も、あまりいい器量じゃないぞ、——恥はお互いだ——それより今日は永井鉄三郎様家督相続のお祝に招ばれているんだぜ、髭《ひげ》でも剃《あた》って来い」  平次はもう何もかも忘れてしまった長閑《のどか》な顔でした  禁制の賦     一  笛の名人|春日藤左衛門《かすがとうざえもん》は、分別盛りの顔を曇らせて、高々と腕を拱《こまぬ》きました。 「お師匠、このお願いは無理でしょうが、亡くなった父|一色清五郎《いっしきせいごろう》から、お師匠に預けた禁制の賦《ふ》、あれを吹けば、人の命に拘《かか》わるという言い伝えのあることもことごとく存じておりますが、お師匠の許を離れる、この私への餞別《せんべつ》に、たった一度、ここで聴かして下さるわけには参りませんでしょうか」  一色友衛《いっしきともえ》は折入って両手を畳に突いて、こう深々と言い進むのです。春日藤佐衛門に取っては、朋輩《ほうはい》でもあり、競争者でもあった一色清五郎の忘れ形見、一時は酒と女に身を持ち崩しましたが、近頃はすっかり志を改めて、芸道熱心に精進し、今度はいよいよ師匠藤佐衛門の許を離れて、覚束《おぼつか》ないながらも一家を興そうとしている男でした。取って二十七、少し虚弱で弱気ですが、笛の方はなかなかの腕前で、もう一人の内弟子の、鳩谷小八郎《はとやこはちろう》と、いずれとも言われないと噂《うわさ》されました。 「一々もっとも、お前の言葉に少しの無理もない。が、『禁制の賦』は三代前の一色家の主人《あるじ》、一色宗六という方が、『寝取り』から編んだ世にも怪奇な曲で、あれを作って間もなく狂死したといわれる。その後あの曲を奏する毎に、人智に及ばぬ異変があり、お前の父親一色清五郎殿が、厳重な封をしてこの私に預けたのだ。流儀の奥伝秘事《おくでんひじ》、ことごとくお前に伝えた上は、あの『禁制の賦』も還してもいいようなものだが、なんといっても、まだ三十前の若さでは、万一の過ちがあっては取返しがつかぬ。決してあの曲を惜むわけではない、せめてあと三年待つがよかろうと思うがどうだ」  春日藤左衛門は道理を尽して、こう言うのです。 「よく判りました、お師匠。でも、私のような若い者には、笛を吹いて祟《たた》りがあるということは受け取れません。それはほんの廻り合せか、吹く人の心構えの狂いから起こった間違いでございましょう。それに私は自分の未熟もよく存じております、『禁制の秘曲』をこの私に渡してくれというような、そんな大それた事は申しません。たった一度でよろしゅうございます。後学のために、お師匠の許を去るこの私に、一色家に伝わる秘曲を、吹いて聴かして下さればそれで堪能《たんのう》するのでございます」 「……」  藤左衛門は口を緘《つぐ》んで友衛の後の言葉を待ちました。 「禁制の曲に魔がさすというのは、夜分人に隠れて、そっと吹くからでございましょう。一日中で一番陽気の旺《さか》んな時、たとえば正|午《うま》の刻《こく》〔十二時〕といった時、四方を開け放ち、皆様を銘々のお部屋に入れ、火の元用心までも厳重に見張って、心静かに奏したなら、鬼神といえども乗ずる隙《すき》がないことでしょう」  一色友衛は、芸道の執心のために、どんな犠牲でも忍び兼ねない様子でした。 「いかにももっとも、——それほどまでに言うなら、この秘曲の封を解いて、お前にも聴かせ、この私も心の修業としよう」  春日藤左衛門はとうとう折れました。この話の始まったのはちょうど辰刻半《いつつはん》〔九時〕それから準備を整え、正|牛刻《ここのつ》〔十二時〕少し前には、妻玉江、娘|百合《ゆり》、あやめ、下女お篠《しの》、下男作松、内弟子鳩谷小八郎を、それぞれの部屋へ入れ、主人春日藤左衛門は、一色友衛とたった二人、奥の稽古部屋に相対して、三十年前友衛の父一色清五郎の封じた、禁制の賦の包みを解きました。  中から出たのは、平凡な能管《のうかん》の賦《ふ》が一冊、それを膝の前に開いて春日藤左衛門は見詰めました。 「よいか」 「はッ」  一色友衛は五六尺下がって、畳の上に両手を突きます。  虻《あぶ》が一匹、座敷を横切って庭へ飛び去ると、真夏の日はカッと照り出して、青葉の反映が、藤左衛門の帷子《かたびら》や、白い障子を、深海の色に染めるのでした。  高々と籐《とう》を巻いたぬば玉の能管、血のような歌口をしめしながら、藤左衛門はさっと禁制の賦に眼を走らせます。  ちょっと見たところでは、なんの変哲もない、『寝取り』の変奏曲《ヴァリエーション》ですが、心静かに吹き進むと、その旋律に不思議な不気味さがあって、ぞっと背《そびら》に水を流すような心持。藤左衛門は幾度か気を変えて途中から止そうとしましたが、唇は笛の歌口に膠着《こうちゃく》して、不気味な調べが劉亮《りゅうりょう》と高鳴るばかり。  これはしかし、いろいろの先入心が、強迫観念になって、技倆に自信を持ち過ぎる、春日藤左衛門の心を脅《おびや》かすのでしょう。 「……」  吹きおわった笛を、流儀のとおり膝の前に置いて、藤左衛門はホッと溜息《ためいき》を吐きました。しばらくは師匠も弟子も、物を言うことさえ忘れていたのです。 「有難うございました」  ややしばらく経って、緊張のゆるんだ一色友衛は、丁寧に一礼しました。  その時、—— 「わッ、大変ッ」  下男の作松の凄まじい声が、遥かの方から真昼の部屋部屋を筒抜けて響きます。     二 「どうした」 「何が大変だ」  家中の者が、八方から集まりました。作松が怒鳴《どな》っているのは、中庭に背《そむ》いて、庭木戸に面した、二番目の娘あやめの部屋の前、踏石《ふみいし》の上に立ったまま、縁側へ手を突いて、部屋の中をのぞく恰好《かっこう》になったまま、なおも気狂い染みた声を張り上げているのです。 「お嬢さんが、——お嬢さんが」 「娘がどうした」  一番先に駈け込んだのは、春日藤左衛門、それに一色友衛が続き、鳩谷小八郎が続きました。 「あッ」  凄まじい恐怖が、花火のように炸裂《さくれつ》したのも無理はありません。部屋の中に若い娘が一人、首に強靭《きょうじん》な麻縄《あさなわ》を巻かれ、その縄尻を二間ばかり畳から縁側に引いて、俯向《うつむき》になったまま死んでいたのです。 「お、あやめッ」  が、引き起した藤左衛門は、一と目、それは妹のあやめで無いことに気が付きました。 「あ、百合だ」 「お姉さん、まア」  妹のあやめは涙声になって、姉の死骸に縋《すが》りつきました。  無残な姿になっているのは、少し足が悪い上、ひどい疱瘡《ほうそう》で見る影もないきりょうになった姉娘のお百合、二十四になるまで両親の側にいて、芸事に精を出している、日蔭の花のような娘でした。  十九になる妹のあやめは、姉に比べるとびっくりするほどの綺麗さ、その方は幸いに無事だったのです。 「まア、どうしたことでしょう」  母の玉江は、一番遅れて縁側へ顔を出しました。十九の時あやめを生んで、今年は三十七、継子《ままこ》のお百合よりは、遥かに美しく、若々しくさえ見える内儀ぶりです。  それから際限もなく混乱がつづきました。医者が来る前に、呼び掛ける者、泣き叫ぶもの、水をかける者、背中を叩くもの、滅茶滅茶な介抱をしましたが、お百合はもう息を吹き返しそうもありません。  町内の御用聞、佐吉が駈け付けたのは、それからまた一刻《ひととき》も経った後のことです。  一と通り様子を聴いて、お百合の死骸を見ると、 「すまねえが、お内儀に番所まで来てもらおうかえ」  錆《さび》のある声が、藤左衛門とその若い女房の玉江を縮《ちぢ》み上がらせます。 「親分、——継《まま》しい仲には違いないが、この女は、そんな大それたことの出来る女じゃありませんよ」  藤左衛門は一応女房を庇護《ひご》しました。 「いや、配偶《つれあい》のいうことなどは当てになるものじゃねえ」  佐吉は少し光沢《つや》のよくなった頭を頑固らしく振ります。 「御新造さんじゃありませんよ、親分さん」  下女のお篠《しの》です。二十一歳の純情をぶちまけて、自分達にはこの上もなく良かった、主人の妻を救う気になったのでしょう。 「お前なんかの口を出す場所《ところ》じゃねえ、引込んでいるがいい」 「だって御新造さんは、上野の午刻《ここのつ》の鐘が鳴るズーッと前から、ツイ今しがたまで、私と一緒にお勝手にいたんだもの」 「なんだと?——そいつが嘘《うそ》だった日にゃあ、手前《てめえ》も牢《ろう》へ叩き込まれるよ」 「いいとも、舌を抜かれても驚かないよ」  お篠は一歩も退《ひ》きません。その真っ正直らしさも、佐吉の疑いをケシ飛ばしましたが、それよりも縁側にしょんぼり坐ったまま、一言も弁解がましい事を言わない玉江の態度が、今まで悪者ばかり見て来た佐吉の眼にも、かなり不思議なものに映ったのでした。 「よし。それじゃお前《めえ》の顔を立ててやろう、ところでその縄を見せてくれ」  佐吉は死骸からはずした縄を受取って、念入りに調べました。 「その尖端《さき》が罠《わな》になっているようだが——」  鳩谷小八郎はツイ口を出しました。この男は一色友衛より四つ年下の二十三で、武家出の腕も才覚も出来た男、わけても妹娘のあやめと、何かの噂を立てられている、立派な男でもあったのです。 「なるほど、こいつは罠だ、——どんな具合に首に掛けてあったか、ちょいとやってみてくれ」 「……」  佐吉の頼みに、皆んな顔見合せるばかり、一人も立とうとする者はありません。 「親分さん、——縄の先が罠《わな》になっていましたよ。投げ罠で獣を捕る時にやる——あの調子で——」  作松は何の作意もなく、そんな事を言うのです。 「ちょっとそれをやってみてくれ」 「いやな事だが、やりますよ。大きいお嬢さんの敵《かたき》を討つためなら、これも仕方があるめえ。南無阿弥、南無——」  作松は念仏を称えながら、百合の死骸の首に縄を巻いてみせるのでした。 「なるほど、それなら遠くから放って、首へ引っ掛けられる、——お前はどこの生れだ」  佐吉は変なことを訊《き》きました。 「信州ですよ、もっとも十七の時江戸へ出て、二十五年も奉公しているが——」 「すると前厄《まえやく》か」 「ヘエ——」 「信州にいる時は、ちょくちょくその投げ罠で獣を捕ったんだろう」 「時々はやりましたよ、親分」 「今でも、人間くらいなら捕れるだろうな」 「と、とんでもない」  作松は愕然《がくぜん》としました。首尾よく佐吉の訊問の罠に掛ったのです。 「まアいい、——ところで庭木戸は内から締っているようだが——」 「ここは滅多《めった》に開けません」  一色友衛はしかと言い切りました。 「下手人《げしゅにん》は家の中の者で、たった一人でいた者となると——」  佐吉の眼はともすれば継母《けいぼ》の玉江と、下男の作松の面上に探り寄ります。     三 「親分、お助けを」  その日の夕刻、下男の作松は、辛《から》くも春日家を脱け出すと下谷竹町から神田明神下まで一気に飛んで、銭形平次の家へ転げ込んだのです。 「あッ、脅《おど》かすぜ、爺《とっ》さん」  平次はそんな無駄を言いながら、この闖入者《ちんにゅうしゃ》を迎えました。 「銭形の親分さん、お助け下さい。一生のお願い、親分を見込んで、命がけで飛んで来ました」 「|おだて《ヽヽヽ》ちゃいけねえ、俺は人に拝まれるような悪いことをした覚えはねえ、——まア、落着いて話してみるがいい」  平次はお静を頤《あご》で呼ぶと、冷たい水を一杯持って来させ、それを作松に呑ませて、ともかくも落着かせました。 「親分、お願い——」 「また拝むのかい爺《とっ》さん、わけも言わずに、いきなり拝まれちゃ、面喰らっているだけだ。わけを話してみねえ」  平次とガラッ八の八五郎に慰められて、作松はようやく落着いた心持になりました。  その訥々《とつとつ》とした口調で、どうにか呑み込ませたのは、今日の昼頃から起こった、笛の春日藤左衛門一家に起こった出来事の顛末《てんまつ》です。 「——こんなわけでございます、親分さん。禁制の賦とやら、不気味な笛の音のする最中、私は裏の物置の中を片づけていました。笛も済んだようだから、庭でも掃くつもりで、お嬢さんの部屋の前まで来ると——」 「……」  作松はゴクリと固唾《かたず》を呑みます。無言でその先を促《うなが》す平次。 「お嬢様は首に縄をつけて、部屋の真中に俯向《うつむけ》に倒れていなさるじゃありませんか」 「部屋の真中に、俯向だね——仰向じゃあるまいな」 「間違いはございません。着物や、髪形がよく似ているので、最初は見馴《みな》れた私も、妹のあやめさんと間違えたほどですから、玉子を剥いたようなあやめさんと、疱瘡《ほうそう》で菊石《あばた》になったお百合さんとは同じ姉妹でも大変な違いようで、仰向になっていれば、間違えるようなことはありません」 「なるほど」 「疑いはお内儀の玉江様に掛りました。お百合さんとはたった十歳《とお》しか違わない継母ですから、佐吉親分が一応そう思うのも無理のないことです。が、お内儀は心掛の立派な方で、そんな浅ましい事をなさるような人柄ではございません」 「……」 「それに継しい仲の——殺されたお百合さんは、ひどい菊石《あばた》の上に、足も悪く、尼《あま》さんのような淋しい心持で暮している方でしたが、そのお心持の立派なことと申しては——」  作松はツイ涙繁《なみだしげ》くなる様子です。四十男の作松は、長い長い奉公の間に、生い立ちからの二人の姉妹を見て、きりょうは醜《みにく》くとも、心掛の美しいお百合に、淡《あわ》いあこがれを持つようになっていたのでしょう。 「で?」  平次は又その先を促しました。 「佐吉親分は、投げ罠を死骸の首に掛けさせてみるような、ずいぶんイヤな事をさせた上、いきなり私を縛ると言い出すじゃありませんか。信州の山奥にいる時は、ずいぶん投げ罠も使いましたが、それはもう二十何年も昔のことで、江戸へ出て人間を害《あや》めることなどは、夢にも考えちゃいません」 「なるほど、そいつは放《ほ》って置いちゃ気の毒だ」  平次はツイツイそんな事を言うのでした。 「有難い、それじゃ銭形の親分さん、乗出して下さいますか」 「待った、そんなに夢中になっちゃいけねえ。御用聞にも縄張りがある、下谷竹町は佐吉の縄張りだ、俺はあんなところまで乗出すわけには行かねえ」 「そう言わずに、親分」  作松は拝んでばかりはいませんでした。いきなり平次の手を引立てて、力ずくでも引張って行こうとするのです。 「冗談じゃねえ。そんなつまらねえ事をしたところで、親分はどうにもなるわけはねえ」  ガラッ八の八五郎ツイ立上がりました。 「親分さん、お願いだ。俺はどうなっても構わねえ。が、殺されたお嬢さんのお百合さんは、本当によく出来た方だ。あの敵《かたき》を討たなくちゃ、この腹の虫が癒《い》えねえ」  作松は、平次の手に取りすがったまま、ポロポロと泣くのです。 「よし、それ程に言うなら行ってみよう。が、下手人は並大抵の人間じゃあるめえ、どんな人間を縛ったところで、後で怨《うら》んじゃならねえ、判ったか」 「それはもう親分さん」 「それからもう一つ、お前《めえ》に訊いておくが、娘の部屋の前の裏木戸は、本当に閉っていたんだね」 「間違いはありません。先刻《さっき》私が縛られそうになって、飛び出そうとすると、木戸は内から閉っているじゃありませんか」 「そいつは大事なことだ、——八、行ってみようか」 「親分」  平次の持前の探究心は、佐吉への気兼も忘れて、とうとうこの事件の真中に飛び込ませたのでした。     四  竹町へ着いたのはもう夕刻。肝心《かんじん》の作松が大きな疑いを背負ったまま行方不知《ゆくえしれず》になって、佐吉がカンカンに怒っている最中へ、銭形平次と八五郎をつれて、ノッソリと帰って来たのです。 「どこへ行って来やがった、野郎ッ」  飛付く佐吉。 「兄哥《あにき》待ってくれ、——様子はこの男から聴いたが、どうも下手人は外にあるようだ」  と平次は見兼ねて割って入りました。 「お、銭形の、兄哥の知恵を借りるほどの事でもないようだ。人間の首っ玉へ、投げ罠なんか引っ掛ける野郎は、どう考えたってその男の外にはねエ」  佐吉は憤々《ぷんぷん》として作松の物悲しい顔を指すのです。 「そう思うのも無理はねえが、自分で殺したのなら、わざわざ罠を人様に見せて、疑いを背負《しょ》い込むような馬鹿はあるめえ」 「その野郎は賢い人間だというのかえ、銭形の」 「賢くはねえだろうが、満更馬鹿でもねえ様子だ。それに兄哥」  平次は一向こだわりのない調子で、固唾《かたず》を呑む円陣の顔を一とわたり見やりながら、部屋の中に眼を移しました。 「……」  佐吉の憤懣《ふんまん》は容易に和《なご》められそうもありませんが、ここでムキになっては、後の不面目を救う由もないことを知っているのか、次第に職業的な冷静さを取戻す様子です。 「ね、兄哥。死骸は仰向じゃなくて、俯向になっていたそうじゃないか」 「ウム」  佐吉は不承不承にうなずきました。 「投げ罠を首に掛けて、遠くから引いて殺したものなら、後向きになっているところをやられたはずだから、死骸は仰向になっていなきゃならない」 「……」 「死骸は俯向きになっているし、作松は草鞋《わらじ》を穿《は》いている」 「……」 「ノコノコ部屋に入って、後ろから絞めておいて、俯向に転がしたのはどう考えても作松じゃねえ」 「……」 「身に覚えがあるなら、そこで怒鳴《どな》っているわけもなく、俺のところへ飛んで来る道理もねえ、まア作松は放っておいて外を捜《さが》してみようじゃないか、兄哥」  平次の調子は慇懃《いんぎん》ですが、条理は櫛《くし》の歯のように真っ直ぐに通って、佐吉も今は争う余地もありません。 「すると下手人は?」 「困ったことに、俺にも判らねえよ」 「ハッハッハッ」  平次の言葉の唐突《とうとつ》な調子に、佐吉は思わず笑ってしまいました。  佐吉の大笑いで二人の間の蟠《わだかま》りが取れると、平次は改めて春日家の一人一人に当ってみました。主人の春日藤左衛門は、 「なんにも心当りはありません。不具《ふぐ》ではあったが、あの娘は心掛の良い娘で、人様に怨まれるはずもなく、こんなことになっては、可哀想でなりません」  そんな事を言うだけの事です。 「縁談の事とか、婿《むこ》の話は」  と平次。 「そんな事は耳を塞《ふさ》いで、聴こうともしなかった娘です。可哀想に、諦《あきら》めていたのでしょう」 「それから、話は違うが、その禁制の曲とやらは、本当に祟《たた》るものでしょうか」 「さア、——まさかね」  平次の真面目な態度に引入れられて、春日藤左衛門は本当の事を考えていたのです。家柄だけに、笛の奇蹟《きせき》を信じたいことは山々でしょうが、娘一人を殺した相手が、鬼神や魔人の仕業《しわざ》では、親心が承知しなかったのです。 「二人の内弟子のうち、どっちが笛がうまいでしょう」  平次の問いはいよいよ定石《じょうせき》はずれです。 「一色友衛の方が少しうまいでしょうが——」  若い時分に道楽強かったことや、師匠の倅《せがれ》という遠慮や、性格的ないろいろの欠点が、春日藤左衛門の心を、武家出の鳩谷小八郎の方へ傾けている様子です。  平次はそれ位にして、内儀の玉江をハ室に呼んでみましたが、この美しい継母からはなんにも引出せません。お百合の死んだ驚きと悲しみに顛倒《てんとう》して、何を訊ねても、世間並の返事しか聴かれなかったのです。  続いてあやめ、これは大変な収穫でした。 「悪者は、どうかしたら、この私を殺す心算《つもり》ではなかったでしょうか」  姉に似ぬ美しい顔を硬張《こわば》らせて、そのつぶらな眼をしばたたくのです。 「どうしてそんな事が」  と平次。 「だって、笛の音のする間、皆んな自分の部屋にいるようにと言われたのに、私は、怖《こわ》いからお母さんのお部屋へ行ったんです」 「……」 「すると、お母さんはお勝手へ行って、お部屋にはいらっしゃらなかったから、お帰りを待っていたんです」 「——?」 「その間に、姉さんは、私に用事があるかなんかで、私の部屋へ行き、うっかり手間取っているところを、後姿が似ているので、私と間違えて殺されたのではないでしょうか。年はずいぶん違っているけれど、あんまり着物の柄が違っては、嫁入前の姉さんに気の毒だからとおっしゃって、お母さんのお指図で、私とお姉さんと似たようなものを着ているんです」  あやめの話は、処女《おとめ》らしくたどたどしいものでした。でも平次は巧みにその話を整理していくと、曲者の意図がどこにあったかが判るような気がしました。  このすぐれて美しい娘が、事件の原動力になって、気狂い染みた殺戮《さつりく》へ、誰かを引込んで行ったのでしょう。この娘の命を狙う者は誰? 平次の眼は、若い二人の男、鳩谷小八郎と一色友衛に釘付けになりました。  もう一度、その微妙な消息を春日藤左衛門に訊くと、 「一色友衛にも鳩谷小八郎にも、娘をやると約束した覚えはありません」  とはっきり言い切ります。  一色友衛は藤左衛門の昔の朋輩《ほうばい》の子ですが、放埓《ほうらつ》で、弱気で、笛の腕前は確かでも、娘をやる気にならず、鳩谷小八郎は、武家の出で腕もよく、男振りもなかなか立派ですが、人柄に気に入らないところがあって、娘の養子にはしたくないといった心持が、藤左衛門の言葉の外に溢《あふ》れるのでした。  もう一度あやめに訊くと、これは真っ赤になって何にも言わず、母親の玉江は、 「なんと言ってもまだ十九ですから、人柄を見抜くことなどは思いも寄りません」  と謎のような事を言うだけでした。     五  平次は庭に降りて、庭石の配置や、かなり深い植込みの様子や、裏木戸の具合を調べてみました。  作松が言ったように、裏木戸は内から輪鍵《わかぎ》が掛っておりますが、釘はさしていず、その下のあたりはよく踏み堅められて、変った足跡などを付けられそうもありません。  引返して一色友衛を捜《さが》すと、何時の間にやら稽古場《けいこば》に引込んで、春日藤左衛門が置き忘れたままの『禁制の秘曲』の前に、愛管《あいかん》に息を入れて、一生懸命工夫をしております。こう音を立てずに吹いていても、その道の者には、曲の感じが判るのでしょう。 「それが禁制の賦とやらで?」  平次は静かに近づきました。 「え」  一色友衛の振り返った眼には、芸術的|陶酔《とうすい》とでもいうのでしょうか、夢見るようなものがありました。 「それを吹くと人が死ぬほどの祟《たた》りがあるというのでしょう」 「私は、そんなことを本当には出来ません。この曲は、少し変ってはいるけれど、『寝取り』には違いないのですよ」  寝取りとはどんなものか、それさえ平次には解りません。 「ところで一色さん、死んだお百合さんは、どんなお嬢さんでした?」 「申し分のない人でした。優《やさ》しくて、慈悲深くて、お気の毒な——」 「妹のあやめさんは?」 「あの人は綺麗でしょう、あんなお嬢さんは滅多にありませんね」  一色友衛の眼は芸術的な陶酔からさめて、現実の世界のあこがれに活々《いきいき》と輝きます。  平次はそれ以上に追及する題目も無かったのでしょう。一色友衛と別れて、今度はあやめと廊下で立ち話をしている鳩谷小八郎を見付けて、人のいないところに誘いました。 「鳩谷さんは御武家の出だそうですね」 「三男ではどうにもならない、——笛でも稽古しなきゃ」  少し捨鉢《すてばち》な調子です。 「死んだお百合さんはどんなお嬢さんでした」 「良い人だった、あんな人は滅多にないな」 「妹のあやめさんは?」 「さア」  小八郎は含蓄《がんちく》の深い笑いを残して、平次の思惑に構わずサッと向うへ行ってしまいました。 「親分、下手人《ほし》の当りはつきましたか」  ガラッ八は心配そうな顔を出しました。平次の動きを、不愉快な顔で見守っている、佐吉の態度に、少しばかりムシャクシャしている様子です。 「解っても縛るわけに行かないよ」 「ヘエ——」 「余っ程|巧《たく》んだ仕事だ。こんな恐ろしい人間を、俺はまだ見たこともない——」  平次は何となく萎《しお》れ返っております。 「男ですかい、女ですかい」 「それがね」 「驚いたね」  ガラッ八は恐ろしく酢っぱい顔をして見せるのでした。 「解っているじゃないか、八|兄哥《あにい》」  佐吉は苦り切った顔を持って来ます。 「佐吉兄哥、——俺も解った心算《つもり》だが、どうも腑《ふ》に落ちないことがある。一と晩よく考えて、明日の巳刻《よつ》〔十時〕過ぎに、又ここで逢うことにしようか」  平次は変なことを言い出しました。 「そんな手数のかかる事をしなくたって、下手人《ほし》の匂いのするのを挙げたらいいじゃないか」  と佐吉。 「それがいけない」 「作松でなきゃ、継母の玉江さ、——下女と一緒にお勝手にいたっていうが、あの下女だって一と役買っているかも知れねえ」 「まア、待ってくれ、佐吉兄哥。下手人はどうせ逃げっこはねえ、何事も明日のことだ」  平次は何か考えたことのある様子で、サッサと引揚げましたが、一二町行くと小戻りして、主人の春日藤左衛門を呼出し、門口で何やら念入りな注意を与える様子でした。  それから真っ直ぐに神田へ——。 「八、これから一と晩かかる心算《つもり》で、一色友衛と鳩谷小八郎の身許を洗ってくれ。親兄弟のことも出来るだけ詮索《せんさく》するんだよ」 「そんな事ならわけはねえ」 「それから、下っ引を狩出して、あの家の通夜《つや》にやってくれ。一人へ一人ずつ見張りをつけるようにするんだ、判ったか」 「ヘエ——」 「油断をすると恐ろしい事になるぞ」  何が何やら解りませんので、八五郎は面喰らって飛び出しました。平次の言い付けたことを、忠実過ぎるほど忠実にやり遂げるのがこの男の取柄《とりえ》です。     六  翌《あく》る日、平次と八五郎と佐吉が、竹町の春日家に顔を揃えたのは、巳刻半《よつはん》〔十一時〕少し過ぎでした。  平次の警戒を裏切って、無事な一と晩が明けると、春日家の空気もさすがに、いくらか冷静さを取戻した様子です。 「少し解りかけた事があります。面倒でも、もういちど昨日《きのう》のとおりの事をやって下さい」  平次は変なことを言い出しました。 「昨日のとおりというと?」  驚いたのは春日藤左衛門でした。 「皆んな昨日の昼のとおりに、——お勝手にはお内儀と下女、お嬢さんは親御さんの部屋に、鳩谷さんは御自分の部屋、作松は物置、——御主人と一色さんは稽古部屋、そして昨日と同じように、上野の午刻《ここのつ》が鳴ったら、禁制《きんせい》の賦《ふ》を吹くのです」 「そんな事が——」  あまりの事に、春日藤左衛門はさすがに尻ごみしました。 「いや、これをやらなきゃ、お嬢さんを殺した下手人は解りませんよ。さア、もう正午《ここのつ》が近い、銘々の部屋に入って下さい」  平次は仮借《かしゃく》しません。八五郎に手伝わせて押込むようにそれぞれの部署に就《つ》かせると、家の中はしばらく、死の寂寞《せきばく》が領しました。  シーンとした、真昼の淋しさ。  やがて上野の正午《ここのつ》の鐘が鳴ると、奥の稽古部屋から、不気味な笛の音が、明る過ぎるほど明るい真昼の大気に響いて、地獄《よみ》の音楽のように聞えて来るのです。  ややしばらくすると、裏木戸は、外から静かに開きました。輪鍵がかかっていなかったのでしょう。と、木戸を押して入って来た怪しの者が一人、跫音《あしおと》も立てずに部屋の外へ忍び寄ると、戸袋の蔭から、スルリと縁側に滑り込みました。  見ると、畳の上を膝で歩いているのです。  部屋の中には、後向きになった女が一人、怪しい者の手から、それを目がけてサッと縄が伸びました。と、女と見たのはクルリと振り返って、投げかけた縄の下をくぐると曲者の身体に素晴らしい体当りをくれました。銭形平次です。 「わッ」  逃げ出す曲者。 「御用ッ」  羽織《はお》った女の単衣《ひとえ》をかなぐり捨てると、平次は曲者の利腕《ききうで》を取って、縁側にねじ伏せたのです。 「親分」  飛んで来たのはガラッ八と佐吉。  平次は曲者の始末を二人に任せて、静かに庭へ飛降りたとき、奥から、勝手から、藤左衛門と二人の弟子と女達は、一ぺんに飛込んで来ました。 「このとおり、皆んなの気のつかないように、裏木戸を閉める隙はある」  平次はその間に裏木戸の輪鍵をかけて、元の縁側へ帰って来たのです。  ガラッ八と佐吉が滅茶滅茶に縛り上げた曲者をみると、下谷から浅草の界隈《かいわい》を、物もらいをして歩く馬鹿の馬吉という達者な三十男。 「あれ、何をするんだよ。俺は何にも悪いことをしねえよ」  襤褸《ぼろ》だらけの装束《しょうぞく》をゆすぶりながら、大声にわめき散らすのでした。 「馬吉、——とんでもねえ野郎だ。何だってこんな所へ入って来たんだ」  平次は静かに訊きました。 「一貫の大仕事だよ、一貫ありゃお前何だって食えるじゃないか」 「その銭をくれたのは誰だ」  佐吉は少しあせります。 「知らねえよ、言っちゃならねえことになっているんだ」 「よしよし、お前は良い男だ。俺が二貫やるから、その銭をくれたのは誰だか言ってくれ」  平次は餌を抛《ほう》ったのです。 「二貫? 嘘だろう」 「嘘じゃない、ほらこのとおり」  平次は一と掴《つか》みの銭と小粒を交ぜて馬吉の膝小僧の下に並べたのです。額は二分以上あったでしょうが、馬鹿に取っては、一貫の上は二貫でなければなりません。 「やア、ずいぶんあるな。それだけありゃ、馬だって殺してやるぜ、——銭をくれた人かい、顔は判らなかったよ。この暑いのに、頭巾《ずきん》を冠《かぶ》った侍だったよ」  そう言ううちにも、馬鹿の目は、好ましそうに一と掴みの銭の山を眺めるのでした。 「皆さんに聴いてもらいたいことがあります。稽古部屋へ集まって下さい、——馬鹿の馬吉は、そのまま物置へ抛《ほう》り込んでおけば、銭を眺めて遊んでいますよ」  平次は春日家の人達を、下女のお篠から下男の作松まで、奥の稽古部屋に入れました。 「親分、馬吉を嗾《けしか》けたのは誰でしょう」  春日藤左衛門はさすがに気が気でない様子です。 「今に判りますよ、——これで皆んなかしら、——いや頭数なんか数えるまでもない、——そこで、馬鹿の馬吉を使ってお嬢さんを殺した曲者は誰か、これから考えてみましょう」  これから考える——という悠長《ゆうちょう》な言葉に、藤左衛門は眉をひそめました。 「曲者は、——びっくりしちゃいけませんよ、実は、妹のあやめさんを殺す気だった。馬鹿の馬吉を手なずけ、膝で歩くことや、縄で締めることまで仕込んで、あの日裏木戸から植込みの蔭へ誘い入れて隠した」 「……」 「馬吉には、上野の正午《ここのつ》が鳴って、奥で笛の音がしたら、そっとお嬢さんの部屋へ入って、害《あや》めるように教えて置いた。笛の音と一緒にやるのは、その時刻には、皆んな銘々の部屋に入って、怖々《こわごわ》時の経つのを待っているから、あの部屋のあたりには人目がない上に、自分は何の関係もないことを他の人に見せ付けておくことが出来る。それから、何もかも禁制の賦の祟《たた》りと思わせることも出来るかも知れず、それがいけなければ、平常《ふだん》投げ罠の自慢をしている作松に罪を被《き》せることが出来る」  平次の説明の恐ろしさに、思わず一同は顔を見合せました。 「それは誰だ。親分、言って下さい。その娘の命を狙ったのは誰だ」  春日藤左衛門はたまり兼ねて、平次の方ににじり寄りました。娘の敵《かたき》が判ったら、即座《そくざ》にも斬ってかかる心算《つもり》でしょう。 「あれ、——あれが下手人ですよ」  平次は耳をすまして、遠く物置の方を指しました。 「御用ッ、御用だッ。野郎ッ」  八五郎の叱咤《しった》と、刃《やいば》と十手の相搏《あいう》つ音が、明るい真昼の空気に、ジーンと響きます。平次を先頭に皆んな飛んで行きました。物置の前では、八五郎に組み敷かれた一人の曲者、まだ精いっぱい争い続けております。 「あッ、友衛」  藤左衛門も、玉江も、あやめも色を失いました。その曲者というのは、——禁制の秘曲を、あんなにせがんだ、——猫の子のように弱々しい、あの一色友衛の、取り乱した凄まじい姿だったのです。 「この野郎が、馬鹿の馬吉を、後ろから匕首《あいくち》で刺《さ》そうとしましたよ」  ガラッ八の威勢のよさ。 「そんな事だろうと思ったよ、恐ろしく悪知恵《わるぢえ》の廻る野郎だ」  平次はガラッ八に手を貸して、一色友衛を縛り上げます。 「親分、これが曲者? あの娘を殺したのがこの男でしたか」  藤左衛門はよろよろと崩折《くずお》れて、鳩谷小八郎に援けられました。 「一色家の何もかも、——格式も、芸も、皆んな春日家のお前さんに奪《と》られたと思い込んでいるのですよ。根性の曲った人間の考えることは、まともな人間には判らない」  不意に縛られた友衛は立上がりました。 「そればかりじゃない、あやめまでこの俺を踏付けやがった——売女《ばいた》」 「あれエ——」  物凄い呪《のろい》の叱咤を浴びて、あやめは暴風の前の草花のように大地に崩折れました。 「八、向うへつれて行け」  平次は八五郎に目配《めくば》して、必死と狂う一色友衛を遥かの方に遠ざけながら続けました。 「皆んなあの男のひがみだ。が、内弟子も、外弟子も、あんな綺麗な娘を勘定に入れずに、芸事にばかり打ち込んで来ると思うのも間違いだ。——人間は人間が考えるよりは弱い。早く婿《むこ》を決めることですね」  平次はそう言い捨てて、八五郎の後を追います。何時もの人を縛った後口の悪さを舐《な》めているのでしょう。  馬鹿の馬吉は、物置の中でいつまでも銭の勘定をしておりました。手におえない夥《おびただ》しい宝に陶酔した顔を挙げて、時々ニヤリニヤリとするのを、手柄をフイにした佐吉は忌々《いまいま》しく睨《ね》め付けております。  忍術指南     一 「八、身体が暇《ひま》かい」  銭形平次は、フラリと来たガラッ八の八五郎をつかまえました。 「有難いことに、|あっし《ヽヽヽ》が乗出すような気の利いた事件《こと》は一つもねえ」 「大きな事を言やがる」  二人は相変らずの調子で話を始めました。 「いったい何をやらかしゃいいんで、親分」 「佐内坂に忍術指南の看板を出した浪人者があるというじゃないか」 「聴きましたよ、成瀬九十郎《なるせくじゅうろう》とかいって」 「その道場へ、これから入門しようというのだ」 「ヘエー、親分がね、ヘエー、忍術の稽古《けいこ》に」  ガラッ八は滅法キナ臭い顔をして見せます。 「忍術も武芸のうちだというから、教えて悪いことではあるまいが、泰平の世の中に『忍術指南』の看板を出すのは何となく穏かじゃねエ。それに忍術というものは、甲賀組《こうがぐみ》とか伊賀組《いがぐみ》とかが公儀から預って、町人や百姓には稽古をさせるものじゃねえと思っているが、——佐内坂のは甲賀流でも伊賀流でもなくて、霞《かすみ》流とかいうんだってね」 「ヘエー」 「御奉行所でもひどく心配なすって、万一|謀叛《むほん》の企てでもあっては一大事だから、中へ入って捜るようにという申し付けだ」 「ヘエ——」 「これから市ヶ谷佐内坂まで行って、鳴瀬九十郎の門人になろうというのだよ、お前も付合ってみちゃどうだ」 「そいつを稽古しておいたら、晦日《みそか》に借金取りが来たときなんか、恐ろしく調法だろうね、親分」 「馬鹿な事を言やがれ」  無駄を言いながら二人は市ヶ谷佐内坂に向いました。  ある秋の日の夕景、山ノ手の街は、もう赤蜻蛉《あかとんぼ》がスイスイと頭の上を飛ぶ時分のことです。  成瀬九十郎の道場は——いや、道場と名のつくようなものではありませんが、表に出した真新しい看板の『霞流忍術指南』の六文字だけが目立つ程度の、至って貧弱な|しもたや《ヽヽヽヽ》でした。 「御免」  声のでっかいガラッ八が、精いっぱいの威儀《いぎ》を作って訪《おと》なうと、町内中の新漬《しんづけ》の味にひびくようなダミ声で、ドーレと来るべきはずの段取りを、どう間違えたか、 「ハイ」  優しい声がして、格子と中の障子を、たしなみ深く開けたのは、十八九の淋しい娘です。  神田の次平、五郎八と名乗って、忍術|執心《しゅうしん》のことを申し入れると、 「しばらくお待ちを」  娘は一たん奥ヘ引込みましたが、やがて改めて二人を案内します。 「神田の次平、五郎八というのか。本来ならば町人に忍術は無用のものだが、まだ一人も弟子がつかないから、大負けに門弟にしてやる。さア、ズーッとこちらへ通るがいい」  おそろしく口の達者な四十男が、畳を剥《は》いで、床板だけ敷き直した十畳敷ほどの道場に二人を通しました。  娘の淋しく美しいに似ず、これはまたなんという馬鹿馬鹿しい忍術の先生でしょう。背は低い方、肉付も極度に節約して骨と皮ばかり、顔は皺《しわ》だらけのくせに、眼と口だけが人並以上で、わけても爛々《らんらん》たる眼には、人を茶にしたような、虚無的な光さえ宿っているのです。 「有難うござります、何分よろしくお願い申します」  平次は用意の束脩《そくしゅう》を二人分、お盆を借りて差出し、その日は四方八方《よもやま》の話だけで帰りました。戸口を出るともう、 「親分、変な野郎じゃありませんか」  ガラッ八の八五郎には、腑《ふ》に落ちない事だらけです。 「何が変なんだ」 「天下を一と呑みにするような大きな事ばかり言やがる癖《くせ》に、人間を見ると、沢庵《たくあん》になり損ねた干大根《ほしだいこん》みたいな野郎で——」 「だが、一と癖ありそうだな。俺は馬鹿にして行ったが、逢ってみて考え直したよ」 「ヘエ——、そんなもんですかね、もっともあの娘は満更じゃねえが」 「娘の鑑定《めきき》だけは、大した腕前だな、八」 「それ程でもねえ」  稽古日は三の日と、八の日。教えることは他愛もありませんが、この成瀬九十郎という人物から、平次は不思議な力と情熱を感じておりました。  三度目の稽古日、忍術に関するいろいろの口伝や理論を聞いて、小さい課程の幾つかを済ませた後、別室に退いて、娘に茶を入れさせながらの話です。 「少し話をして行くがいい。次平は生れながらの忍術使いだ、二三年みっちりやると、うまくなるぞ」  成瀬九十郎はそんな事を言って、大満悦です。 「|あっし《ヽヽヽ》は、先生?」  ガラッ八は側から鼻を出しました。 「五郎八は駄目だ」 「ヘエ——?」 「生れながらの鈍根《どんこん》だな、お前は」 「ヘエー」  まるっきり型無しです。 「ところで先生」  平次は静かに切り出しました。 「何じゃな、次平」 「近ごろ御府内を騒がしている山脇玄内《やまわきげんない》とかいう泥棒、あれはやはり忍術の心得があるのでしょうな」 「心得どころではない、忍術名誉の達人だな。南北両奉行の役人が、歯ぎしりしたところで、山脇玄内を縛ることなどは思いもよらない」 「それほど心得のある者が、押込み夜盗の真似をするとは憎いじゃございませんか」 「いや、これにも仔細《しさい》のあることだろう。例えば、山脇玄内は義賊といった輩《ともがら》かも知れぬではないか」  成瀬九十郎はケロリとしてこんな事を言うのです。 「その義賊というのを、|あっし《ヽヽヽ》は大嫌いなんで。貧の盗みは百文盗っても世間は許しゃしません、義賊と名が付くと、百両とって十両か二十両だけ貧乏人にやり、あとは自分の贅沢に費っても、世間じゃ見上げたもののように言い囃《はや》します。|あっし《ヽヽヽ》はそれが気に入らないんで」 「たいそうな意気込みだな、次平」  成瀬九十郎は強《し》いても争《あらそ》わず、ただニヤリニヤリと笑っているだけです。     二  山脇玄内の跳梁《ちょうりょう》はそれからまた一段と目ざましくなりました。襲われるのは大抵高家大名、でなければ大町人で、盗られる金も百両、二百両と纏《まと》まった口ばかり。それを貧乏人にバラ撒《ま》くのが山脇玄内の道楽らしく、玄内の活躍が激しくなればなるほど、心なき江戸ッ児は喝采《かっさい》を送るのです。  中には、不義の富を積んでいる者を襲って、有り金を奪い取り、それを正統の持主に還して溜飲《りゅういん》を下げたりすることもありました。が、どんな弁解があるにしても、山脇玄内が泥棒を働いていることには何の変りもありません。  それから二三日経ったある晩、山脇玄内の増長は羽目をはずして、市ヶ谷の尾州家上屋敷に忍び込み、その金蔵に潜り込んで、千両箱を二つまで盗み出したのです。  六十一万石の大々名、御三家随一の名家でも、これは捨て置くわけに行きません。当面の責任者御蔵番|奥宮鏡太郎《おくみやきょうたろう》は、用人玉垣三郎兵衛に伴われて神田の平次を訪ねて来ました。 「昨夜|酉刻《むつ》〔六時〕から戌刻《いつつ》〔八時〕までのあいだ、御門の締まる前後、詳しく言えば御蔵の戸前に錠をおろす前後の、ほんのちょっとした隙《すき》にやられた。——盗られた金は二千両だが、これが出て来なければ、役向き不取締で、この奥宮鏡太郎腹でも切らずばなるまい。拙者が腹を切れば、下役二人も生きてはいまい、その女房子供も路頭に迷うことであろう。いわば人間の命幾つにも及ぶ事件、何とかなるまいかの、平次殿」  奥宮鏡太郎、畳の上に手を突き、分別盛りの額《ひたい》を埋めての懇願《こんがん》です。 「お大名方御屋敷に起こったことは、町方の者ではどうにもなりませんが、自由にお屋敷の中へ入れて下されば、なんとか工夫をしてみましょう」  平次もツイ相手の真剣さに引入れられます。 「それは易いことじゃ、お屋敷へ自由に出入りのことは拙者が引受けよう」  そう言ってくれるのは、用人玉垣三郎兵衛、これでどうやらこうやら段取りだけは出来ました。 「それではお供いたします」  市ヶ谷の尾州邸へ出かけて行った平次は、奥宮鏡太郎の案内で、内外|隈《くま》なく見廻りましたが、捕物の名人と謳《うた》われた銭形平次の慧眼《けいがん》でも、何の証拠も掴むことは出来なかったのです。  塀も高く見張りも厳重で、容易のことでは外から忍べそうもありませんが、屋敷の中には、まさか二千両の大金を持出すような不心得者があるはずはなく、それに金属の扉も土台も無事で、引っ掻きほどの傷もついていないところなど、近頃御府内を騒がしている、山脇玄内の手口でなければなりません。 「しばらく考えさせて下さい」  さすがの平次も、そうでも言って引き下がる外は無かったのです。  相手が山脇玄内だとすると、これは容易ならぬ事になります。物を考えるともなく、平次の足癖《あしくせ》は、そこからあまり遠くない、佐内坂の成瀬九十郎のところを訪《たず》ねました。 「これは、次平ではないか、今日は稽古日ではないようだが」  成瀬九十郎は少し腑に落ち兼ねた顔です。 「この辺を通った序《ついで》と申しちゃ失礼ですが、ちょっとお邪魔をいたしました」 「邪魔どころか、退屈で困っている。ゆるゆると話して行くがいい、——ところで大層顔色がよくないようだが、何か心配事でもあるのかな」 「心配事なんかございません、——尾張様のお屋敷へ泥棒が入ったそうで、世の中には恐ろしい奴があるものだと、感心をしていたところでございます」 「別に感心するほどの事ではないではないか」  成瀬九十郎は自若《じじゃく》としておりますが、充分に好奇心を動かしている様子です。 「あれほどのお屋敷には厳重な見張り見廻りもあります。表裏の門は門鑑《もんかん》がなければ、一寸も通すことではありません」 「待て待て次平、——お前は成瀬九十郎の弟子になって、忍術の手ほどきくらいは習ったはずだ。見張りがあろうと、門番があろうと、そこを通るのは何でもないくらいのことは知っているだろう」 「それは理窟《りくつ》で、——尾張様のお屋敷へ入るのは、そんな呑気《のんき》なものじゃございません」 「忍術は知らぬ他国の敵の陣中へも忍び込む術を教えるのだ。泰平《たいへい》の御代の大名屋敷へ入るなどは物の数でもない」 「でも」 「お前は見張りがあると言ったが、見張りはあったところで、見張り同士ではとがめもしないだろう。門鑑というものがあると言ったが、それは士分以下の者や、出入りの商人には入要でも、殿様が自分で通るのには門鑑は要るまい。他の大名方のお使者や、家中お歴々とても同じことだ」 「そう言えばそうですが、易々《やすやす》と御金蔵へ入るのは、係り役人の外には出来ないはずじゃございませんか」  平次も釣られるともなく言い募《つの》りました。 「その係り役人ならば、誰疑うものもなく、自由に金蔵へ出入りが出来るだろう」 「……」 「すべて、物事に無理をしないのが忍術の極意だ。山脇玄内とかいう奴、何の巧《たく》みもなく、ぬくぬくと千両箱を二つまで盗み出したことであろう。相手は六十一万石の大々名だ、面白いではないか、次平」  成瀬九十郎はこんな事を言って、カラカラと笑うのです。 「少しも面白くはございません。相手は六十一万石の大名でも、その日暮しの貧乏人でも、物を盗んで良いという理窟はございません」 「大層やかましい事を言うな、——だがな次平、その二千両をその日のものにも困っている、気の毒な貧乏人にわけてやるとしたら、山脇玄内の罪も半分は軽くなるというものではないか」 「そいつを、|あっし《ヽヽヽ》は大嫌いで。高利貸をして信心事に金を費うのも、泥棒を働いて施《ほどこ》しをするのも、卑怯《ひきょう》な心持ちに変りはありません。そいつは皆んな、悪事を働いて極楽へ行きたいといった、虫のいい人間のすることですよ」 「だが、山脇玄内はそんな気じゃあるまい。人の出来ないような事をして、溜飲を下げているのだろう。綱渡りをしてヤンヤと言われるように、——山脇玄内にしてみれば、泥棒もまた一つの芸事ではないかな」 「泥棒が、芸事? とんでもない事ですよ、先生」  平次はもっての外に気色ばみます。 「それが悪いのかな、次平」 「尾州の蔵番奥宮鏡太郎とその配下の二人の役人が腹を切りかけていますよ」 「……」 「二千両の金が戻らなきゃ三人の命を助けようはありません。三人の武家が腹を切ればその親も子も配偶《つれあい》も、路頭に迷うことは判り切っております。これが増長慢心した泥棒|風情《ふぜい》の芸事のせいで済むでしょうか」 「……」 「貧の盗みや出来心の盗みならともかく、これじゃ山脇玄内、盗った二千両に十倍の利子をつけて施しをしても、勘弁出来ないじゃありませんか」 「なるほどな、——お前の言うのももっともだ。その二千両が還りさえすりゃ、三人の者は腹を切らなくて済むだろう」  成瀬九十郎は妙な事を言い出しました。 「それはもう、二千両の金さえ無事に還れば、役人方が腹を切るまでもありません」 「それならワケはないじゃないか」 「ヘエ——」  平次は少しつままれそうでした。 「よく聴くがよい、次平」 「……」 「俺はいながらにしてその二千両を捜し出してやろう——山脇玄内といえども鬼神ではあるまい、物の隙間《すきま》や、節穴から入れるわけはないのだ、——多分、酉刻《むつ》前後の門の閉まる前、出入りの一番混雑する時を狙《ねら》って、家中の身分ある者と見せかけ、表門から威張り返って入ったことだろう」 「……」 「金蔵の入口は、たそがれ時、係り役人の後ろに物の影のようについて入ったに違いない。役人の後ろにヒタと付いて、向うの方、蔵の中から物音を聞かせるのだ。役人はその物音に心ひかれて、|あたふた《ヽヽヽヽ》と入ったに違いない」 「……」 「山脇玄内は多分ひと晩金蔵の中に泊って、幾万両とも知れぬ小判と一夜を明かした事だろう。翌る朝、係り役人が入って来て、千両箱二つ紛失したのに仰天しているとき、山脇玄内は誰はばからず金蔵を立出で、大手を振って表門から出たのだ」 「千両箱は?」  平次は釣られるように膝をすすめました。 「山脇玄内でも、二つの千両箱を両脇に抱えて、朝の表門をノコノコと出られる道理はない」 「……」  あまりの明察に、平次はあっけに取られて、この貧弱な忍術使いを見やるばかりです。 「後日折を見て取出すつもりで、屋敷の中に隠してあるよ。少し八卦《はっけ》を置いてみようか、——左様、——まず御金蔵のすぐ傍だ、土に縁があって、石に縁があって、水に縁があるかな。——お前は大急ぎで取って返し、三人の小役人に安心させるがいい。腹を切ると痛いぞとな」 「先生」  平次はさすがに仰天しましたが、いま尾張屋敷から出て来たことまで言い当てられたのです。しかし最早ぐずぐずしている時ではありません。挨拶もそこそこ、一気に屋敷へ取って返しました。  今にも振り出しそうな村雨《むらさめ》模様の空合です。     三 「二千両の行方《ゆくえ》が判りました」  奥宮鏡太郎のお長屋へ通されると、銭形平次はいきなりこんな事を言うのです。 「何、二千両の行方? どこだ」 「お屋敷から持ち出された様子はございません。もういちど御金蔵のあたりをお調べ下さい」 「左様か」  奥宮鏡太郎、これも謹慎中の下役二人をつれて、あたふたと金蔵に駈け付けました。バラバラと一と村雨が来ましたが、もうそんな事などは考えてもいません。 「どこだ、平次」 「土に縁があって、石に縁があって、水に縁のあるところでございます」 「それだけでは解るまい」 「いえ、これで確かに判るはずでございます」  平次は不安がる役人を促して、金蔵の四方をグルリと廻りました。土に縁があり、石に縁があるというと、土台石の下などは最も恰好ですが、それでは水に縁がありません。  金蔵の南の方に用水井戸がありますが、井桁《いげた》が栗材で、これは石に縁が無く、雨樋《あまどい》は水に縁があっても、銅《あか》ですから金《かね》に縁を生じます。 「どこだ、平次」  せき立てられて、平次はしばらく途方に暮れましたが、雨脚は次第に繁くなって、平次も三人の役人もぐっしょり濡れてしまいました。 「あッ、これだッ」  銅《あか》の雨樋から落ちた水が、御影《みかげ》で畳んだ見事な暗渠《あんきょ》の中にチョロチョロと落ちて行くのを見て、平次は思わず歓声を挙げたのです。濡れるのも構わず、泥の中に膝を突いて、暗渠に手を入れると、指先に触れたのは、囲い箱が二つ、引出してみると、紛《まぎ》れもないそれは千両箱です。 「……」  物をも言わずに飛び付いた奥宮鏡太郎、千両箱を抱えるようにしたまま、用人の玉垣三郎兵衛を呼んで、四人立会いの上、蓋《ふた》を払いました。 「あッ」  中は燦たる小判、何の紛れもありません。 「有難い、平次殿。心ばかりの御礼も致し度い、先ず拙者長屋へ——」  二つの千両箱を金蔵に納めると、奥宮鏡太郎は平次を誘います。 「とんでもない奥宮様、あれは|あっし《ヽヽヽ》の働きじゃございません。|あっし《ヽヽヽ》に教えてくれた人があるのです。——外にも急ぎの用事があります。御免下さい」  平次は相手の引止めそうな様子を見ると、返事も聴かずにサッと引揚げました。  行く先は佐内坂の成瀬九十郎の道場。  成瀬九十郎に逢って、どんな態度に出たものか、平次も全く思案が定まりません。思い切って縛ったものだろうか、相手の出ようを見たものだろうか、兇賊山脇玄内というのは、成瀬九十郎の変名に相違ないと睨みましたが、さすがの平次も、この忍術の師匠を縛るだけの証拠は一つも手に入らなかったのです。 「御免」  思い切って飛び込むと、中は空っぽ。突き当りの障子一パイに、書きも書いたり、淋漓《りんり》とした大文字が数行。  盗んだ金を身に着けるなら、成瀬九十郎こんな貧乏はせぬ、盗賊を芸事と思う思わぬは其方《そち》の勝手だが、構えて師弟の道を踏み違えまいぞ、穴賢《あなかしこ》。 山脇玄内こと 成瀬九十郎 門弟次平こと 銭形平次殿へ 「ウーム」  平次は思わず唸《うな》りました。あまりにも鮮やかな背負い投げです。     四  それから五六日は何事もなく過ぎました。 「親分、あの娘はちょいと踏めたね」  ガラッ八は思い出したように変なことを言います。 「どこの娘だ」 「ヘッ、通じないような顔をすることはないでしょう、——佐内坂のそれ」 「大泥棒の娘だよ、あれは」 「親が泥棒だって、娘は大丈夫で」 「馬鹿だなア」 「あの加奈《かな》とかいった娘に、もういちど逢いたいような気がしますよ。ちょいと淋しいが良い娘でしたね、夕顔の花のようで」 「夕顔の花と来たね」 「物の譬《たとえ》ですよ、親分」 「それほど執念なら、あの娘を捜してくれ。娘を捜し出せば、親の隠れ家も解るというものだろう」 「やってみましょうか」 「江戸は広いぜ、八」  そんな馬鹿なことを言っている時でした。 「あの、お客様ですが」  平次の女房のお静が、片襷《かただすき》を外したまま、覗き加減に声をかけました。 「どこの方だい」 「名前はおっしゃいません、若い、御武家風のお嬢さんで」 「丁寧に通すんだ」  平次はガラッ八と顔を見合せました。間もなくお静に案内されて来たのは、成瀬九十郎の娘お加奈——ガラッ八が夕顔の花に譬えた淋しい娘です。 「あッ、お前さんか」  素ッ頓狂な声を出したのはガラッ八でした。 「親分、お願いがあって参りました」  お加奈は部屋の隅の方に、慎《つつ》ましく手をつくのです。 「どうしてこの平次のところへ来る気になりました」 「父から教わりました」 「?」 「父は常々、江戸中で怖《こわ》いのは、銭形平次たった一人と申しておりました」 「……」  平次は少し擽《くす》ぐったく首を縮《ちぢ》めました。 「その父を親分は疑《うたぐ》っているに違いございませんが、父は正直一途の浪人者で、山脇玄内などという泥棒ではございません」  お加奈はピタリと言い切って顔を挙げるのです。 「その証拠は、お嬢さん」 「第一に、山脇玄内が尾州様、御金蔵に泊って二千両盗ったという晩、父はどこへも出ずに佐内坂の宅におりました」 「証拠は?」 「私が一緒におりました、これほど確かな証拠があるでしょうか」  これほど確かな証拠である代り、これほど不確かな証拠もありません。 「お気の毒だがお嬢さん、それは証拠になりませんよ」 「私が嘘を申すとでも——」 「とんでもない、お嬢さんを嘘つきにしていいものですか、——|あっし《ヽヽヽ》はそれを本当にしても、上お役人には通用しません」  親は子のために隠し、子は親のために隠す——と言った唐土《もろこし》の聖人の言葉を、平次は小耳に挟んでいたのです。 「どうしたらいいでしょう、親分」  お加奈は詮方《せんかた》もない姿でした。 「本当の山脇玄内を捜し出して突き出すことですよ、外に工夫はありません」 「……」  お加奈は悲しそうでした。が、それ以上何にも言うことが無かったらしく、平次が突っ込んだ問いまで外らして、そこそこに帰ってしまいました。  その後姿を見送って、ソッと八五郎に眼くばせすると、ガラッ八は少しあわて気味に、お加奈の後を追って、夕暮近い街に飛び出します。  それから一刻ばかり。 「ひどい目に逢わされたぜ、親分」  ガラッ八は忿々《ぷんぷん》として帰って来ました。 「娘へ|ちょっかい《ヽヽヽヽヽ》を出して、往来へ抛《ほう》り出されたんじゃあるまいな」 「冗談じゃありませんよ、後をつける度毎にやられた日にゃ、十手捕縄の手前も面目ねえ」 「それじゃどうしたんだ」 「あの娘は後ろも見ずに歩くから、安心して跟《つ》けて行くと、いきなり神楽坂《かぐらざか》裏のしもたやへ入るじゃありませんか。占《し》めたと思って、しばらく経ってから入ってみると——」 「空家だろう」 「そのとおりで、正に一言もねエ」  ガラッ八は額を掌《てのひら》で叩くのです。 「その家に、貸家札が貼ってあったのか」 「とんでもない、貸家札なんかありゃ、あんな娘っ子の籠抜《かごぬ》けを逃しゃしません」 「近所で訊いたかい」 「訊きましたよ。すると、近頃まで貸家だったが、塞《ふさ》がったかも知れません。でも挨拶もないしお蕎麦《そば》も来ないから、まだ引越して来たわけじゃないでしょう——という話で」 「それじゃ用意した細工だ、何だって突っ込んで訊いてみなかったんだ」 「ヘエ——」 「ヘエ——じゃないよ。籠抜けだって、唯の空家へいきなり飛び込めるものじゃねえ。その家の差配に訊いて、どんな人間が借りたか、いつ引っ越して来るか、よく確かめて、突っ込むなり、張り込むなり、せめて三日も頑張ってみるがいい。手前《てめえ》の好きな夕顔の娘が、きっともういちど姿を現わすに違げえねえ」  平次の推理は整然としております。 「なるほどね、——だがね親分。夕顔の娘は、夕顔の花の間違いじゃありませんか」 「馬鹿野郎、夕顔で気に入らなきゃ、冬瓜《とうがん》なり糸瓜《へちま》なり、勝手なように融通して置きやがれ」  ガラッ八はまことに散々ですが、最後に一番取って置きの反抗を企てました。 「それじゃ親分、下っ引を五六人狩り出して、山脇玄内を手捕りにしても構やしませんか」 「いいとも、安心して手柄にするがいい」 「今度は、きっとうまくやりますぜ、親分」 「念の入った御挨拶だ、——俺だって遊んじゃいないよ八」  二人はそんな事を言って別れました。この上もなく仲の良い親分子分が、手柄を張り合うようになったのは、本当に珍しいことです。     五  その晩、山脇玄内は、神楽坂の質屋、天城屋《あまぎや》六兵衛の家を襲いました。盗った金は千両箱が一つ、万事うまく行って、イザ逃げ出そうというとき、目ざとい主人六兵衛に騒ぎ出され、多勢の雇人が、金盥《かなだらい》を叩いて急を告げたので、こんな時のために用意された町内の若者が数十名、天城屋の内外を始め、神楽坂の上下、蟻《あり》の這い出る隙間《すきま》もなく固めてしまいました。  泥棒は、どこへ行ったか、しばらくは影も形も現わしませんでしたが、包囲網を引締めて、最後に猫の子一匹隠れていないと判った時、ツイ先刻《さっき》、町内の若い者の一人のような顔をして、大手を振って出て行った者があることに気が付きました。 「あッ、あの野郎だ、——あれが泥棒だったんだ。天城屋の提灯《ちょうちん》を持って、自分の顔をわざわざ見せるようにして行ったぜ」 「妙にニヤニヤした野郎だが、誰だかちょっと思い出せない顔だと思ったよ」  そんな事を言ったところで、もう追いつくわけはありません。  泥棒の逃げたのはそれでわかりましたが、盗られた千両箱は、泥棒が素手で逃げたにもかかわらず、家の中にも、路地の外にも、どこにも見えなかったのです。  夜中から朝にかけて、大掃除ほどの騒ぎでした。天井裏も床下も、押入|納戸《なんど》、落しの中はいうまでもなく、井戸の中までも見ましたが、千両箱に似寄りのものもありません。  その翌る日の夕刻、フラリとやって来たのは銭形平次でした。 「あ、銭形の親分」  顔を知ってるのが声をかけると、千両箱を捜しあぐねた人達は、地獄で仏といった安堵《あんど》の顔になります。 「山脇玄内に千両箱をやられたそうだね」 「それですよ、親分、——持って出た様子はないのに、盗られた千両箱は、どこを捜しても見付からないのです」  天城屋六兵衛は萎《しお》れ切っておりました。 「俺にも判らないかも知れないが、ちょっと見せてもらいましょうかな」  平次は家の中を一と通り見廻して、それから外へ出ました、わけても水瓶《みずがめ》と下水と井戸に気をつけたのは、少しばかり訳のあることだったのです。  今日——未刻半《やつはん》〔三時〕頃、平次のところへ、手紙を一本抛り込んだ者があったのでした、披《ひら》いてみると、 天城屋の千両は、水に縁があり、火に縁があり、空に縁がある 玄内  こう書いてあるのです。  平次はともかくも神楽坂まで飛んで来ました。別に自信があるわけではありませんが、この手紙の謎の文句から、何かしら金の隠し場所が判るような気がしたのです。  水に縁のある場所は一と通り調べましたが、火に縁があるというと、銅壺《どうこ》か鉄瓶《てつびん》の外はありません、その上、空に縁があるというと、全く想像を絶してしまいます。 「あ、解った」  平次は不意に声をあげました。 「どこで? 親分」 「路地の足跡《あしあと》が深過ぎたし、庇《ひさし》の瓦が一枚壊れている、——梯子《はしご》を」  平次の声に応じて、裏から梯子を持って来ました。それを踏んで大屋根の上に登った平次、天水桶《てんすいおけ》を覗いて思わず歓声をあげたのです。 「あった」  水に縁があって、火事のために用意して、常に大空を映す天水桶は、なるほど謎の言葉にピタリとするのでした。山脇玄内の手口を知っている平次は、思いも寄らぬ隠し場所を考えながら、少しの手がかりから、天水桶に眼をつけたのは手柄です。 「山脇玄内は大物はきっと二度に盗む、今晩を過ごしたら、この千両も手に戻らないところだったかも知れない」  平次がそう言うのは無理のないことでした。 「まずまず」  とお祝の用意をするのを、平次は振りもぎって帰って来ました。こんな事で人に褒められたくはなかったのです。——泥棒の山脇玄内から、謎の手紙を受取ったと言ったところで、誰がいったい本当にするものでしょう。  その翌る日ガラッ八は、鼻高々と平次の家へやって来ました。 「親分、解りましたよ」 「何が?」 「何が——は情ないな。成瀬九十郎、またの名山脇玄内と、その娘お加奈の住んでいる家ですよ」 「どこだ」 「あの空家のツイ裏」 「そんな事だろうと思ったよ」 「相変らず貧乏臭く暮しているから、あれが大泥棒とは、誰だって気が付くめえ」 「それを気が付いたんだから、八五郎は大したものさ」 「からかっちゃいけません、——今晩手入れをして、一ぺんに縛ろうと思うがどんなものでしょう」  八五郎はもう、山脇玄内を生簀《いけす》の魚のように考えている様子です。 「それもよかろうが、止した方が賢いかも知れないぜ、八」 「なぜ、親分?」  八五郎の手柄などを嫉《ねた》みそうもない平次が、この手入れにはっきり反対するのは不思議なことでした。 「だって、こういって来てるぜ、——こいつはいつもの手紙と筆蹟《て》は違っているが、言うことは抜き差しのならねえ話だ。『今夜山脇玄内は海真寺《かいしんじ》本堂を襲い、本尊弘法大師|自刻《じこく》の坐像を盗み出すはず。これは玄内は大師の帰依者《きえしゃ》だが、海真寺の住職は戒律《かいりつ》を保たず、堕落僭上《だらくせんじょう》の沙汰があるので、尊い本尊を預けて置けないからだ』と書いてある」 「ヘエ——、あれが大師の帰依者で?」 「とにかく、俺は海真寺へ行かなきゃなるまい。どうだ、一緒に行ってみる気はないか、八」 「そいつは無理ですよ、親分」 「何が無理なんだ」 「今夜という今夜、八方から網を絞って、山脇玄内を隠れ家から挙げることになっているじゃありませんか」 「じゃ、勝手にするがよかろう」 「ヘエ——」 「その代り、山脇玄内を縛ったら、牛込見付の番所へ来い」 「ヘエ——」     六  平次が海真寺へ行ったのは、もう酉刻《むつ》過ぎでした。  門前の花屋を覗いて、寺内を一と廻り、庫裏《くり》から本道へ入って行くと、 「あ、銭形の親分さん、御苦労様で」  檀家《だんか》総代、世話人、寺男の一隊が、住職から小僧を交えて、グルリと本尊の大師像を取り囲み、怖々《おずおず》ながら次第に深くなる夜を迎えているのでした。山脇玄内警告の一条は陽のあるうちに平次から寺へ通じて置いたのです。  本尊は等身大の坐像、黒々と時代の付いたのに、金爛《きんらん》の袈裟《けさ》を掛け、座布団の上に据えて、大厨子《おおずし》の中に納め、その前面は諸人の無遠慮な視線を避《さ》けるために、錦《にしき》の几帳《きちょう》で隠してあったのです。 「ちょっと拝ましてもらいましょうか」  ズカズカと本尊の前へ行く平次。 「あ、それはなりません。当寺の本尊は秘仏《ひぶつ》になって、年に一度しか開帳しないことになっております」  住職はあわてて止めました。 「そんな事を言ったって、盗まれた日にゃ何にもなりませんよ」 「だが——」  住職の渋るのも構わず、平次は、 「遠くからちょいと拝むだけですよ——|あっし《ヽヽヽ》はここにいるから、小僧さん、その几帳をほんの少し開けて見せて下さい」 「……」  小坊主は住職の顔を眺めながら、強《た》って反対の様子のないのを見定めて、厨子の几帳を半分ほど開きました。 「もう沢山、——なるほど結構な大師様らしい。泥棒|調伏《ちょうふく》のために、うんと線香をあげて下さい、——線香よりは、抹香《まっこう》の方がいいかも知れない」  平次はそんな事を言い捨てて、庫裡の方へ行きましたが、やがて一と掴みの赤唐辛子《あかとうがらし》をもらって来て、それをよく揉んで、盛んに燃えている香炉《こうろ》の中へパッと抛りました。 「あッ、これはたまらぬ」  驚いたのはその座にいる十幾人の人達でした。抹香と唐辛子に燻《くす》べられて、咳《せ》き込みながら逃げ出すと、それよりも驚いたのは、本尊の弘法大師様坐像でした。——いや弘法大師の坐像になりすましていた泥棒と言った方がいいでしょう。続け様に咳き込みながら、 「何という事をするのだ」  厨子から飛び出すと、戒壇《かいだん》と木魚《もくぎょ》を踏んで、パッと外へ——。 「待て待て、山脇玄内」  続く銭形平次、ツ、ツツと前へ駈け抜けて、パッと両手を開いたなりに突っ立ちます。 「邪魔だッ」 「御用だぞッ」 「何をッ」  二人はパッと合って、もういちど左右に飛び退きました。大師像に化けた曲者の手には匕首《あいくち》が、平次の手には十手が閃《ひら》めきます。  二度、三度、十手と匕首が鳴りました。平次にぬかりは無かったにしても、この曲者は思いの外の腕前です。 「灯《あか》りだ」  平次は十手を左に持ち替えながら怒鳴《どな》りました。相手は稀代《きだい》の忍術使いです。平次も一と通りの稽古をしたお蔭で、その術の発展だけは、巧みに妨げましたが、何分薄暗い寺の庭で、いつ、どこへ姿を隠されるか解りません。  灯りの来る前、曲者はもういちど平次に飛び付きました。辛《から》くも左手の十手を働かせて、その襲撃を退けた平次、右手が高々と挙がると、得意の投げ銭が、闇を剪《き》って飛びます。  一つ、二つは避けましたが、三つ目に頬を打たれ、四つ目に唇を打たれ、五つ目に右手の指を打たれて、思わず匕首を取り落したところへ、 「御用だッ」  平次の体当り見事に極まって、曲者は石畳の上にドウと倒れました。 「それッ」  と折り重った弥次馬、一瞬の後、銭形平次は、兇賊山脇玄内を、雁字《がんじ》がらめにして、埃《ほこり》を払っておりました。ちょうどその時、庭一パイに持い出された灯りで見ると、山脇玄内の顔は、小柄で皺《しわ》だらけで、眼と口が大きくて、干大根《ほしだいこん》のようで、——成瀬九十郎そっくりです。  が、曲者は口を緘《つぐ》んで物を言わず、平次もまたそれを聴こうともしません。 「本尊像はどこだ」 「どこへ持ち出した」  住職と檀家総代は、今さらながら空っぽのお厨子に気がつきました。 「御本尊は寺内にあるに違いありません。それはこの曲者の手口です」 「寺内? どこでしょう、親分」 「おいおい判るでしょう」 「どうしてお厨子の中なんかへ曲者は入っていたのでしょう、親分」  いろいろの質問は八方から飛びます。 「薄明るいうちに御本尊を持ち出して、寺内に隠し、しばらく人目を誤魔化《ごまか》すために、自分で本尊になり済ましたのでしょう」 「どこに持ち出したのでしょう」 「捜して下さい」  それから半刻ばかり、寺の内外をのこる隈なく捜したがわかりません。曲者はそれを冷やかに見て、一句も言わず、折があらば逃げ出そうとしている様子、平次は少しも目が離せなかったのです。 「とにかく、寺内にあるに違いない。気長に捜したら出て来るだろう」  平次は諦《あき》らめて寺を立ち出でました。縄付を追って、門前まで来ると、花屋には灯りが点いて、店番の老爺が褞袍《どてら》を着て頬冠《ほおかむ》りをしたまま、つくねんと坐っているのですが、その恰好が、一刻《いっとき》ばかり前に、平次がやって来たときと寸毫《すんごう》の変りもありません。生きた人間が、そんなに長いあいだ、寸毫も形を崩さずに、生温かい秋の夜を、褞袍を着ていられるものでしょうか。 「あの老爺だ」  平次が指すと、二三人の人が飛び付くと一緒でした。頬冠りを取り、褞袍を剥ぐと、中から現われたのは、鑿《のみ》の香も尊く、慈眼《じがん》を垂れた大師の尊像ではありませんか。 「老爺をどこへやった」  続く不安はそれでした。 「物置の中で本当に眠っているよ」  曲者は始めて口を開きました。 「それから、もう一つ、その御本尊の胎内《たいない》を見て下さい」  平次はたったそれだけの事を言って、曲者を追っ立てて牛込見付へ急ぎました。曲者が等身大の木像に執着するのは、何か理由があるのではないかと思ったのです。  果して、木像の中から金無垢《きんむく》の大変な仏像が現われました。大師|入唐《にゅうとう》のとき、請来《しょうらい》したのではあるまいかという——これは後の話——。     七  牛込見付の番所に来ると、ガラッ八は得々として迎えました。 「親分、首尾よく挙げましたよ」 「何? 誰を挙げたんだ」 「山脇玄内|親娘《おやこ》ですよ」 「馬鹿野郎」 「あッ、あれは、親分」  平次の後ろから下っ引が追い立てて来た曲者を見ると、さすがにガラッ八の顔色が変りました。 「山脇玄内はこの男だよ」 「すると、あれは?」 「成瀬九十郎さ」 「……」  ガラッ八の眼が飛び出さないのが本当に不思議なくらいでした。  番所の中にはガラッ八と五六人の下っ引に縛られた成瀬九十郎が、娘のお加奈と一緒に、割り切れない顔で運命を待っておりました。 「お、平次」 「いや、次平ですよ、——五郎八がとんだ粗相《そそう》をしたそうで、まア、勘弁して下さい」  平次はそう言いながら、お加奈と九十郎の縄を解いてやります。  その時、平次の後ろから引立てられて来た曲者が、灯りの中へ顔を出しました。 「お、兄上、とうとう」  成瀬九十郎の口から出た言葉は、何もかも説明してしまったのです。 「九十郎、俺を訴人《そにん》したのは、お前だな」  山脇玄内の顔色がサッと変ると、激しい言葉が洩れました。 「いや違う、私ではない」  成瀬九十郎の、これが精いっぱいの弁解です。  その間に、ポロポロと涙をこぼしているのは、娘の加奈だけでした。その深刻な悲嘆の理由《わけ》は、多分父も伯父も知らなかったでしょうが、平次だけは判然《はっきり》知っておりました。山脇玄内という兇賊を自分の伯父と知る由もないお加奈は、父に来た手紙を見て、——今夜海真寺を襲い、本尊を盗み出す——企てのあることを覚《さと》って、父を恐ろしい疑いから救うために、平次に密告の手紙を出したのです。  山脇玄内と成瀬九十郎は、それっきり引離されました。淋しく家路をたどる親娘《おやこ》の後ろから、平次は追いすがり加減に、 「成瀬先生、また参りますよ。忍術の稽古に」  こう声を掛けると、 「いや、もう忍術指南は止しじゃ」  成瀬九十郎はふり返りもせずに応えて、月のない神楽坂を登って行くのです。 「親分、あっしには少しも解らねえ、あれは一体どうしたことなんで?」  縄付を引渡した帰り、ガラッ八は平次に絵解きをせがみました。 「俺も解らなかったよ、——だが、成瀬九十郎という人間の人柄と、娘の人柄にどうも悪人らしくないところがあると思ったんだ。最初は成瀬という人を、山脇玄内と思い込んだのはお前と同じことさ」 「ヘエ——」 「岡っ引は証拠を揃《そろ》えることも大事だが、人間を見ることも大事だよ。——あの成瀬という人は、兄の山脇玄内のやり口をよく知っていたんだ。同じ霞流忍術の達人で、兄弟だもの、それは無理のないことさ。尾州の二千両、天城屋の千両、皆兄に罪を犯させたくないから、俺に教えて捜し出させたんだ」 「ヘエ——、それほど賢い人間が、何だって忍術指南の看板などを出して、上役人の目に止まるような事をしたんでしょう」  ガラッ八の疑問はなかなか突っ込みます。 「それが解らないばかりに苦労したよ、——笹野の旦那のお言葉添えで、甲賀町の忍術者のところへ行って聴くと、霞流の忍術というのは大変珍しいもので、天下にこの流儀を伝える者は山脇大膳という人の門人二三人しか無いということが解ったんだ」 「……」 「成瀬という人が、霞流忍術指南という看板を出したのは、江戸中の噂《うわさ》にして、仲間の者を呼ぶためだと見当をつけたが、後で考えると、これは兄の山脇玄内を呼ぶための苦しい計略だったんだ、——兄の山脇玄内が、泥棒になって江戸中を荒している。それは捨て置けないから、何とかして兄を呼び寄せて意見をし、本心に還らせるつもりのところへ、俺とお前が入門したんだ」 「ヘエ——」 「向うは平次に八五郎と知って入門させた。それからはお前の知ってのとおりさ、——多分、佐内坂を引き払う頃、願いが叶《かな》って兄に廻り逢ったことだろうが、玄内は弟の意見など聴き入れなかった」 「なるほどね」 「娘のお加奈が——今晩は海真寺の本尊を盗むつもり、放埓《ほうらつ》な住職をこらしめるためだ——とか何とか書いた玄内の手紙を見て、それが真《まことの》の伯父とも知らずに俺に教えたのだろう」 「お加奈は泣いていましたぜ、可哀想に」 「俺は唯泣かせただけだが、お前は縛ったじゃないか。いずれにしても夕顔の花とは縁がないよ、諦めるがいい」 「ヘッ、有難い仕合せさ」  ガラッ八はペロリと舌を出しました。調子は道化《どうけ》ておりますが、顔に漂う一抹《いちまつ》の哀愁は覆《おお》うべくもありません。  二人浜路     一 「親分、面白い話があるんだが——」  ガラッ八の八五郎は、妙に思わせぶりな調子で、親分の銭形平次に水を向けました。 「何が面白くて、膝っ小僧なんか撫で廻すんだ。早く申し上げないと一張羅《いっちょうら》が摺《す》り切れそうで、心配でならねエ」  そう言う平次も、この頃は暇でならなかったのです。 「親分が乗りだしゃ、一ペンに片づくんだが、あっしじゃね」 「たいそう投げてかかるじゃないか」 「せっかく頼まれたが、どうも相手がいけねエ」 「大家《おおや》か借金取りか、それとも叔母さんか」 「そんな不景気なんじゃありませんよ。イキの良い若い娘なんで、ヘッ」  八五郎は耳のあたりから首筋へかけてツルリと撫で廻しました。余っ程|手古摺《てこず》った様子です。 「なるほどそいつは大家より苦手だ。若い娘がどうしたんだ」 「朝起きてみると、娘が変っていたんで。姉様人形のように、人間の首が一と晩ですり替えられるわけはねえ。そんな事が流行《はや》った日にゃ——」 「待ちなよ八、そう捲《まく》し立てられちゃ筋が解らなくなる。どこの娘が変っていたというのだ」 「こういうわけだ、親分」  八五郎はようやく落着いて筋を通しました。  小日向《こびなた》に屋敷を持っている、千五百石取りの大旗本|大坪石見《おおつぼいわみ》、非役で内福で、この上もなく平和に暮しているのが、朝起きてみると、娘の浜路《はまじ》がまるっきり変っていたというのです。  浜路は取って十九、明日はいよいよ、遠縁の三杉島太郎次男要之助を婿養子に迎えるはずで、大坪家は盆と正月が一緒に来たような騒ぎ、当人もなんとなくソワソワと落着かぬ心持で床へ入った様子でしたが、翌る朝——というと、ちょうど昨日の朝、いよいよ今日は婚礼という時になって、婆やのお篠《しの》が顔色を変えて主人の大坪石見に耳うちをしたのです。お嬢様の様子が変だから、ちょっとお出でを願いたい——と。 「それから大変な騒ぎだ。ケロリとして顔を洗って、身支度をしている娘は、年恰好も浜路と同じくらい、武家風でツンとしたところのある浜路に比べると、下町風で愛嬌があって、優しくて、ちょいと鉄火で、負けず劣らず綺麗だが、人間はまるで変っている」 「それからどうした」  話の奇《き》っ怪《かい》さに、平次もツイ吐月峰《はいふき》を叩いて膝を進めました。 「何しろ、色は少し浅黒いが、眼が涼しくて、口元に可愛らしいところがあって、小股《こまた》が切れ上がって、物言いがハキハキして——」 「そんな事を訊いてるんじゃねえ、それからどうしたんだよ」 「役者の拵《こしら》えを話さなくちゃ、筋の通しようはないじゃありませんか、——そのちょいと伝法《でんぽう》なのが滅法界野暮ったい、武家風の刺繍《ししゅう》沢山なお振袖かなんか鎧《よろい》って、横っ坐りになって、絵草子なんか読んでいるんだから、親分の前だが——」 「馬鹿野郎」  ガラッ八の話のテンポの遅さ。これが親分を焦《じ》らして、自分から乗り出させる魂胆《こんたん》と知りながらも、平次はツイこう威勢の良い『馬鹿野郎』を飛ばしてしまいました。 「まず騙《だま》されたと思って、逢ってみて下さいよ。相手は武家屋敷だが、これが表沙汰になると、大坪の家名に拘《かか》わるから、用人の小嶺右内という人が、持て余してそっと、あっしに頼みに来たくらいだ。旗本の大身に御機嫌を取らせるのも、満更悪い心持じゃありませんよ」 「呆《あき》れた野郎だ」 「大事の大事の一人娘が行方不知《ゆくえしれず》になったが、その代りのニセ首を、成敗することも突き出すこともならねエ」 「フーム」 「娘はどこへ行った。お嬢様をどこへ隠した——とヤワヤワ訊くと、『私が浜路でございます』と、ニコニコしているんだから手の付けようはねえ。あんな時は、親分の前だが、綺麗な娘はトクだね。同じニセ首でも、こちとらのようなのだと、いきなり縛り上げて拷問にかけられる」  ガラッ八の話は遊び沢山で、要領から遠くなるばかりですが、とにかく、千五百石取りの大身の一人娘が、祝言の前の晩、一夜のうちにすり替えられていたことだけは間違いありません。 「どりゃ、その綺麗なニセ首でも拝んで来ようか」  平次もとうとう御輿《みこし》をあげる気になりました。     二  平次とガラッ八が、小日向台の大坪家へ行ったのは、山ノ手の町々が、青葉の香にムセ返るような、四月の美しい日盛り。 「小峰さんはいなさるかい。銭形の親分をつれて来たが——」  お勝手口から、心得顔に入るガラッ八の顔へ、 「あ、八五郎か、大変なことになったよ。まア入ってくれ」  当の小峰右内は、せっかちらしい言葉を叩き付けるのです。 「どうしました、小峰さん」 「どうもこうもないよ、まず見てくれ」  平次とガラッ八は、不安と焦燥《しょうそう》に眼ばかり光らせている雇人の中をお勝手から納戸へ、奥の方へと通う廊下を導かれます。 「これだ」  とある部屋の障子を開けると、中には五十年配の女が一人、不自然な恰好で、床の上にこと切れているのでした。 「婆やさんじゃありませんか」  とガラッ八。 「けさ殺されていたんだよ。下女が見付けて大騒ぎになり、ともかくも首に巻き付けた細紐《ほそひも》だけをはずして、一応介抱してみたが、もう冷たくなっているんだ。息を吹き返す道理はない。婆やの倅《せがれ》が品川にいるはずだから、大急ぎで人をやったが、まだ来ないよ」  小峰右内は、武家の御用人らしくもなく、少し顛倒《てんとう》しておりました。 「親分」  八五郎は後ろから跟《つ》いて来た平次に場所を譲りました。  婆やのお篠は、五十前後の巌丈な女で、いざとなったら、相当力もありそうですが、不思議なことに大して争った様子もなく、床から半身をのり出してはおりますが、至って平穏に死んでいるのです。 「八、少し起こしてみてくれ、——お前は足の方を持つんだ、——あッ噛み付くぜこの仏様は」  平次は死骸の頭を抱えて、床の上に真っ直ぐに起こしながら、そんな事を言うのです。 「親分、脅《おど》かしちゃいけません」  ガラッ八はドキリとした様子でふり返りました。 「首を起こした弾《はず》みで、歯が鳴ったんだよ。心配することはねエ」 「あんまり結構な人相じゃないから、ついドキリとしますよ」 「罰《ばち》の当ったことを言うな。——この紐は少し華奢《きゃしゃ》なようだが」 「その代り丈夫ですよ、真田紐《さなだひも》だから」  平次は兇器に使われた、萌黄《もえぎ》の真田紐を取上げました。 「こいつは何に使った品だろう。刀の下緒《さげお》じゃなし、前掛の紐じゃなし、ひどく新しいが——」  平次は萌黄染料の匂いを嗅ぎながらそんな事を言うのでした。 「お嬢様の御道具の箱を縛った紐だ」  小峰右内はもっての外の顔をして見せます。 「その嬢様は、どこにいなさるんで?」 「逢わせましょう。が、その前に、ちょっと訊いて置きたいが——」  と小峰右内。 「ヘエ、——どんな事で」 「これが表沙汰になると、お家の瑕瑾《かきん》になる。奉公人の一人や二人死んだのは、急病の届出ですむが、お嬢様が変ったとなると、これはうるさい、——万事呑込んでくれるであろうな」 「それはもう、御用人様。あっしは町方の御用聞で、御武家屋敷のことには、立入る筋じゃございません。御老中、御目付などの御歴々と、あっしの仕事とは、なんの関係もないのでございます」 「よしよし、そう判ってくれると大変ありがたい」 「たいそうお困りの様子ですから、お嬢様を捜し出してあげた上、町人や奉公人に悪いのがあったら、それは容赦をいたしません」 「じゃこう来てくれ」  右内は二人を案内して、また幾間か先へ暗い廊下を進みました。 「ここだ」  小峰右内の開けた唐紙の中を見て、二人は顔を見合せました。婆やの死骸とは比べものにならない、そこには刺戟的なものがあったのです。     三  それは、八五郎が口を極めて賛美した、変え玉の娘でした。いよいよ一と責めする気になったものか、燃え立つような赤い扱帯《しごき》でキリキリと縛り上げ、嫁入道具のおびただしく取り散らした中、箪笥《たんす》の引手にそれを結えてあったのです。  ドカドカと入る三人の姿を、娘は顔をあげて怨《うら》めしそうに眺めましたが、すぐまた眼を伏せて、きかん気らしい唇をキッと結びました。ガラッ八がすっかり有頂天《うちょうてん》になって、手持の語彙《ボキャブラリー》を総仕舞いしただけあって、悩ましき場景の中に据《す》えるにしては、この上もない妖艶さでした。 「どうしたことです、これは?」  平次は娘と用人の顔を等分に見比べました。 「この娘が怪しいとでも思わなきゃ——」  右内は苦りきっているのです。 「それは?」 「見も知らぬ人間が、明日は祝言というお嬢様の代りになっていたり、なにか仔細《しさい》を知っていそうな婆やが殺されて、首に巻いてあった細紐がこの部屋から出た品だったり、疑えばいくらも変なことがある。殿様がこの娘を責めてみろとおっしゃったのも無理はあるまい」 「御尤もですが、こんなにひどく縛っちゃ可哀想です。どれ」  平次は娘の後に廻ると、小手と首を締め上げた扱帯《しごき》を解いて、その前に片膝を突きました。 「さて、改めて聴くが、お前はどこの誰だえ? 誰に頼まれてここへ入って来たんだ。——人殺しの疑いを受けているから、用心をして返事をするがいい。——黙っていちゃ、言い訳の出来ないものと思われるかも知れないよ」 「……」  娘はチラリと平次の方を見ましたが、相変らず黙りこくって、唇を開こうともしません。 「銭形の親分だよ。お前のために悪いようにして下さる気遣いはない。知っていることを皆んな言うがいいぜ」  ガラッ八は横から長ンがい顔を出しました。昨日も一度逢ってるんで、これはいくらか心易立てです。 「申しますワ、銭形の親分さんなら」  娘は顔をあげました。長い睫毛《まつげ》が濡れて、真珠のような涙が豊かな頬にこぼれます。 「それがいい。——お前が正直にしてくれさえすれば、この俺が引き受けて、悪いようにはしてやらない」  平次はそう言いながら、もういちど立上がって、娘を縛った扱帯《しごき》を、皆んな取り払ってやりました。後ろの方で、小峰右内がむずかしい顔をしておりますが、平次はそれを振り向いても見なかったのです。 「私はやはり、ここのうちの子なんです。浜路というのは、私の名前に違いありません」  娘の言葉は平次にも予想外でした。 「それはお前、本気で言っているのか」 「え、——もっともそれを知ったのは、ツイ一と月前のことだけれど」 「それまでお前はなんという名だったんだ」 「関《せき》といいました。草加《そうか》の百姓|午吉《うまきち》の子ということで育ち、浅草に引越して、もう十年にもなります」 「もう少し詳しく話してくれ。その草加で育ったお前が、どうしてこの大坪様の子だと名乗ったんだ」  お関の話は、少なくとも平次とガラッ八には奇っ怪なものでした。  それは、今から十九年前のこと、旗本大坪石見の奥方は、娘浜路を産んで間もなく亡くなり、嬰児《えいじ》は草加の百姓午吉夫妻に預けられて、三つになるまで育ち、それから小日向の大坪家へ帰されたのですが、お関に言わせると、午吉夫婦は自分の娘お関が、里子の浜路と、よく似ているのを幸い、娘をゆくゆく大旗本の跡取り娘にするため、人知れず取換えて育て上げ、浜路をお関にして手許に留めおき、お関を浜路として、三つになる時小日向のお屋敷へ返した——というのでした。 「私も、そんな事とは知らず、午吉夫婦の娘のつもりで、浅草で小さい荒物屋の店を出している偽《にせ》の両親のところで育ちましたが、今から一と月前、母親が病気で死ぬとき——これは一生言わないつもりだったが、黙って死んでは冥途《めいど》の障《さわ》り、何がどうあろうとも、言わずに死ぬわけには行かないと、父親の留守中に、そっと私に話してくれました」  あまりの事に、平次もガラッ八も、用人小峰右内も、開いた口が塞《ふさ》がりません。 「母親が死んだ後、父親の午吉は年にも恥じぬ放埓《ほうらつ》で、家へ寄り付いてもくれません。思案に余って、昔からの知合いで、私を里子に出す時世話をしてくれたという、このお屋敷の婆や——お篠《しの》さんを呼出して相談すると——」 「……」  話の重大さに、聴く方がツイ固唾《かたず》を呑みました。お関の浜路は、なんの作意もなく静かな調子でつづけます。 「お篠さんに話をすると、最初はひどく驚いていましたが、急に乗り気になって、——お嬢さんの婚礼が明日に迫って、今更どうしようもないが、実はお嬢さんはひどくこの祝言を嫌がっている。無理に三杉さんの御次男を迎えたら、三日経たないうちに、お嬢さんは自害をするに違いない。急場の凌《しの》ぎが付いたらまたなんとかなろう。お前が本当にこの屋敷のお嬢さんなら、ちょうど仕合せだから、今晩そっとやって来て、お嬢さんと入れ換ってくれという頼みでした」 「……」 「私に否やのあろうはずもありません。今ではどこへ行く当てもない私、浅草の荒物屋へ帰ったところで、明日の暮しの工夫もつかない私ですもの。お篠さんの頼みのとおり、お嬢さんと入れ換って、翌る朝、お篠さんに見付けられたように仕組みました」 「お嬢さんはどこへいらっしったんだ」  右内は我慢がなり兼ねて口を挟みました。 「それは判りません。私は庭木戸の外でチラと見たっきりですもの。——でも、そこには、若いお侍が待っている様子でした」 「若いお侍? 顔を見なかったのか」 「なんにも見ません。背が高くて真っ直ぐにシャンと立っていたことだけは気がつきました。縁側の戸を開けて、お篠さんが呼んでいるので、大急ぎで入ったんですもの」  お関の浜路の言葉はあまりにも常識の桁《けた》をはずれますが、ことごとく作り事にしてはあまりによく筋が通ります。十九年前この屋敷の奥方が亡くなって嬰児浜路を草加へ里子に出したのも事実、その浜路が十九になって、婿選《むこえら》みという段になった時、父親の気に入った三杉の次男要之助をひどく嫌っていたことも事実です。 「右内、困った事になったのう」  唐紙を開けてズイと入って来たのは、五十を幾つか越したらしい立派な武家——主人大坪石見でした。 「殿様、さぞ御心配なことで。——私は神田の平次でございます」  平次は丁寧に膝を直しました。 「御苦労だな。——近ごろ神田の平次というと大層な評判だから、右内がとやかく言うのを、私から頼むように言ってやったのだよ。御目付衆の耳にでも入ると面倒だ。なんとかいいように頼むよ」 「かしこまりました。御当家の落度ではございませんから、決して御迷惑になるような事はいたしません。ところで——」 「なにか訊ねたいことがあるのか」 「お嬢様が三つで里から帰られたとき、なにかこう——変だな——と思召したことはございませんでしょうか」 「忘れたよ、平次。奥でも生きていれば、またなにか思い付くことがあるかも知れないが、その頃私は甲府《こうふ》の御勤番でな」 「御尤で。——もう一つ承わります。三杉様御次男との御縁組は変更は出来なかったのでございますか」 「早く婿を欲しいと思ってツイ娘の気も知らずに選んだ私の落度だ。が、武士と武士の約束は容易に変更の出来るものでない。娘が嫌だと申しますからと言って縁談を断わるわけに行かないよ」 「もし、御嬢様が御無事でお戻りになりましたら、やはり元の縁談をお進めになるつもりで——」 「娘の病気と言って祝言を伸ばしてはあるが、下人《げにん》の口がうるさいから内々三杉家では承知しているかも判らない。向うから断わって来れば一番無事なのだが——」  武士たることの悩み、人の子の父たることの悩みに、大坪石見は分別らしい顔を伏せました。     四  平次とガラッ八は一応屋敷の中にいる人間全部に逢ってみました。男は用人の外に中間、小者、庭掃きの爺、女はお小間使のお延《のぶ》、仲働きのお米、外にお針に飯炊き。それからもう一人、主人大坪石見の甥《おい》で、宇佐川鉄馬というもっともらしい四十男が、小峰右内の手伝いをして、十年越しこの屋敷の掛人《かかりうど》になっております。 「私は宇佐川鉄馬、——平次殿か、何分よろしく頼みます」  薄髯《うすひげ》を生やした、少し無精らしい角顔の背の低い男——何時でも眠そうで、無口ですが、そのくせ仕事には至って忠実で、障子も張れば、水も汲むといった肌合の人間です。 「お嬢様をつれ出した若い背の高い侍というのに御心当りはありませんか」  平次はそんな事から始めました。 「いや一向——私は滅多に浜路さんとは口をきかないのでな」  宇佐川鉄馬は照れ臭そうに笑います。腹の底から女を諦《あきら》めていそうな男です。宇佐川鉄馬は、本当は三十を越したばかりですが、誰の眼にも四十過ぎとしか見えない無精男です。 「お嬢さんの代りになっている、あのお関とかいう娘はどうです」 「お関というのかな、あの娘は。先刻までは私は真物《ほんもの》の浜路だなんて言い張っていたが——もっともそんな天一坊気取りさえなければ、とんだ良い娘だ。下町育ちで解りが早いから」  鉄馬はそんな事を言って他所事《よそごと》のようにニヤニヤするのでした。 「ところで八」 「ヘエ」 「お関の親父の午吉《うまきち》は、浅草で荒物屋をしている様だ。町所を訊いて、捜し出してくれないか」 「ヘエ——」 「万事はその午吉が知っているに違いない。多分|安賭場《やすとば》かなんかへ潜り込んでいるんだろう。愚図愚図言うなら、しょっ引いて来るがいい。親父が口を割りゃ、一も二もあるまい」 「ヘエ——」  八五郎は気軽に尻を端折りました。少し花道を駈け出すような調子ですが、文句のないのと気の早いのと、そして鼻の良いのがこの男の取柄です。  平次は一とわたり奉公人に逢ってみましたが、なんの得るところもありません。少し綺麗なお延も、気性者らしいお米も、中間も、小者も、皆んな一季半季の奉公人で、大それた事をする理由を持っていそうなのはなかったのです。  用人の小峰右内は五十少し越したらしく、額の上の光り具合、少し鷲《わし》になった赤鼻、金壺眼《かなつぼまなこ》——など、あまり結構な人相ではなく、欲も人並みには深そうですが、主人大坪石見の頼んだ平次を、自分の思い付きのように見せかけたのと、お篠を絞め殺した真田紐を、なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく、嫁の道具を縛った紐と言いきったのが、少し変といえば変ですが、その外には別に怪しい節もありません。大坪家に二十年以上も住んでいる人間ですから、渡り用人並に、少しくらいは溜めていたところで引抜いて大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》などに化ける気遣いはまずなさそうです。  もっともこの屋敷のもので、一番背の高いのは右内で、これで夜目に若い侍と間違えられる見込みがあれば、少しは疑いの圏内に入るかもわかりません。  平次は女たち一人一人に、浜路の身持を訊きましたが、婿料《むこがね》に定まった、三杉の次男坊を嫌い抜いていることは事実ですが、そうかといって、言い交した男があろうとは思われず、若い娘らしく、いろいろ奉公人達と話はしていたが、さして執着した名前はなかったということに一致するのでした。  ここまで来ると、平次の探索もハタと行詰ります。この上はガラッ八が午吉を見付けるのを待つ外はないでしょう。  平次は最後にもういちど、婆やのお篠の死骸を見舞い、それから押入れの中に首を突っ込んで、徳利《とくり》が一本隠してあるのを見付けました。婆やはことのほか酒好きで、そっと寝酒をやることは奉公人達も知っていましたが、徳利は綺麗に洗って酒の匂いもありません。     五 「親分、おどろいたぜ——」  ガラッ八が帰って来たのは、中一日おいて三日目の昼過ぎでした。 「何をおどろくんだ。御用聞が往来を飛んで歩くと、世間様の方が驚くぜ」  平次はなにかこう、腐り抜いていたのです。一向他愛もないように見えた大坪石見の屋敷の騒ぎが、その後少しも埒《らち》があかず、お関の浜路と、用人右内と睨み合ったまま、どうにもならぬ日が続いていたのでした。 「親分、こいつは驚くぜ。荒物屋の午吉——草加から出て来て、安賭場を泳いでいる男が、土左衛門になって大川橋から揚がったんだ」 「何?」 「それね、親分だって眼の色を変えるんだもの。それを見たあっしが、大川橋からここまで駈けて来たに不思議はねエ」 「で、死骸に変りはなかったのか」 「大変り、お篠の伝で、三尺で絞められているんだ。こんどは真田紐じゃねえが、水の中でふやけているから、瓢箪《ひょうたん》のように括《くく》れていやがる。みられた図じゃあねエ」 「なんて口をきくんだ。仏様を見たら、念仏の一つも称えて来い、馬鹿」 「ヘエ」 「それっきりか」 「それっきりならお代は要らねえ。腹巻に呑んだ財布に、小判が三枚」 「たいそう持ってやがるな」 「——その上この十日ばかり、張って張って張り捲《まく》ったそうだから、三文|博奕《ばくち》にしても、五両や十両は損《す》っているそうですよ」 「よしよしそれだけ聴けばたくさんだ。茶漬けでも一杯掻込んで、一緒に来ないか」  平次はもう外出の支度をしておりました。 「どこまでも行きますよ。一日や半日食わなくたって、なア——ニ」  お勝手へ飛び込むと、手桶からいきなり柄杓《ひしゃく》で水を一杯—— 「あれ、八五郎さん、御飯の仕度をしていますよ」  お静はおどろいて、その鯨飲《げいいん》振りを眺めました。  二人が小日向へ駈け付けたのは、その日が暮れかけた頃。 「あの娘に逢わせて下さい」  右内の案内も待たず、平次はお関の浜路の部屋に飛び込みました。 「ま、銭形の親分」 「親分じゃねエ、太てえ阿魔《あま》だ」  平次は日頃にない乱暴な口をきいて、お関の前へヌッと立ちました。 「あ——れエ」 「お姫様らしい声を出したって驚くものか。なア、お関」 「……」 「お前の父親が、殺されたんだぞ」 「えッ」 「十九年間の育ての親だ。お前の生みの親でなくたって、仇くらいは討つ気になってもよかろう」 「本当ですか、親分、それは」  お関の表情も、さすがに強張《こわば》って行きます。 「どこから入ったか、十五六両の金を持って賭場を泳いでいるうち昨夜《ゆうべ》、三尺で首を締められて、大川へ放り込まれたんだ。死骸の上がったのは今日、八五郎が見て来たんだから、嘘じゃねエ」 「まア」 「可哀想に引取り手がないから、まだ大川橋の袂に、筵《むしろ》をかけて放ってあるぜ」  八五郎は横合いから口を出しました。 「……」 「お前の父親を殺したのは、お前をここへおびき寄せた人間だ。——お前の父親の口から何もかもバレそうになって、八五郎の先廻りをして虐《むご》たらしいことをしたんだ」 「……」 「お関、芝居はもうたくさんだ。お前がこの間話した、嬰児《あかご》と嬰児を取換えるというのは、一応筋になりそうだが、実はそう容易《たやす》く行く芸当じゃない。草加の百姓へお嬢さんを里子に出して、立派なお旗本が三年も放っておく道理はないし、三年経って帰って来た偽首を屋敷中の者がみんな気が付かないはずはない」 「……」  平次の論告に圧倒されて、お関の浜路はタジタジとなってしまいましたが、それでも頑固に口を緘《つぐ》んで、実は——と言ってくれそうもありません。 「お前は黙っていさえすれば、いいつもりだろうが、黙っていると、婆やのお篠を殺した罪を背負って、処刑台《おしおきだい》に、その綺麗な首をさらすかも知れないよ。それも承知だろうな。この細工を引き受けたのは、お屋敷の中では婆やだ。婆やが死んでしまえば、お前の乗込んだ経緯《いきさつ》を、知ってる者はいなくなる——」 「……」 「その婆やが、お前の部屋にある真田紐で絞め殺されたんだよ。あの晩お前の部屋へ入って真田紐を持って行った者がなきゃ、下手人はお前だ」 「そんな、そんな、親分」  お関はさすがに蒼《あお》くなりました。 「よく考えて見るがいい。俺は四半刻《しはんとき》〔三十分〕ばかり、屋敷の内外を見廻って来る」  平次はお関を一人おいて八五郎と一緒に外へ出てしまったのです。     六 「親分、——お関は本当に婆やを殺したのでしょうか」  八五郎は庭から木戸へ出る平次の後ろからそっと声をかけました。 「そんな事があるものか」 「だってそう言ったでしょう」 「あれは脅かしさ。——若い娘が、寝ている大女を絞め殺せるものかどうか、考えてみるがいい」 「あっしもそう思ったんだが——」 「それにこれを御覧」  平次は紙入れから銀の小さい耳掻《みみかき》を出して懐ろ紙に挟んで見せました。 「黒くなっていますね」 「いつか、お篠の死骸を起こした時、——噛み付きそうだ——って言ったろう」 「ヘエ——」 「あの時、この耳掻を死骸の口の中に入れたんだ。帰る時そっと抜いてみると、このとおり燻《いぶ》したように真黒になっている」 「……」 「あの婆やは石見銀山《いわみぎんざん》で毒害されたんだよ。婆やが寝酒を呑むことを知っている人間の仕業だ」 「それなら、真田紐は余計じゃありませんか」 「ちょっとお関の方へ疑いを向けて、その間に婆やを葬らせるつもりさ。自分の方へ疑いの来ないようにする計略だよ」 「悪い野郎だね」 「野郎だか女だか解らない。——おや?」  平次はギョッとした様子で立ち止りました。 「親分、なんで?」 「あれを見るがいい、悪人には不思議に手ぬかりがあるものだ」  指さしたのは、お勝手寄りの壁に立てかけた竹竿《たけざお》の切れっ端、六尺くらいもあるのに、一尺ほどの曲った横木を縛った十字形のものでした。 「あれはなんで?」 「あの棒に着物を引っ掛けて、上へ団扇《うちわ》かなにか差したのを、木戸の外の下水の縁へでも立てて置くと、面喰った若い娘は、真っ暗な晩だったら、背の高い男と見るようなことはないだろうか」 「なるほどね」 「そうでも思わなきゃ、あの十文字の使い道が判らないよ。それに、横木は人間の肩くらいの勾配《こうばい》で、下へ流れているのは、手数のかかった細工じゃないか」 「すると」 「背の低い人間の細工だ」 「シッ」 「人が来たのか。よしよし、もういちどお関のところへ行ってみよう」  二人が入って行くと、お関はもう観念しきった姿でした。 「親分さん、私が悪うございました。どうぞ縛って下さい」  打ち萎《しお》れて畳に手を突くと、この娘はとんだいじらしくなります。 「よしよし、皆んな言うがいい。悪いようにはしない」 「みんな誰かの細工《さいく》です。父さんがお金をもらって、私にこの役を勤めてみるがいいって言うんです」 「フーム」 「私も、いつまで経《た》っても浮ぶ瀬のない貧乏暮しに、すっかりイヤ気がさしていました。夏になっても冬になっても、着物一枚買うことの出来ないような——」 「……」 「お前くらいのきりょうなら、立派に旗本のお嬢様で通る。向う様では祝言が嫌さに、どうでも家を飛び出したいって言うんだから、これほど功徳《くどく》なことはない。——それに殿様はそう申しては悪いが、無類のお人好しで、どんな事があったって、お手討などになりっこはないし、こんな面白い狂言があるものかって言うんです」  お転婆で、無法で、冒険好きな下町娘は、果てしもない貧乏に倦《う》みきて、とうとうこんなとんでもない役を買って出ることになったのでしょう。 「それっきりか」 「え」 「お前は大変な間違ったことをしているとは気が付かないだろう。——俺は人様に意見をするほどの年寄りじゃねえが、お前が馬鹿な事をしたばかりに、婆やさんとお前の父親が死ぬような事になったじゃないか」 「親分さん」 「泣いたって追っ付くことじゃない。——この上、このお屋敷のお嬢さん——浜路さんに間違いがあったらなんとする」 「親分さん、どうしたらいいでしょう」 「お前は本当に、父親に金をやって、こんな事をさせた相手を知らないのだな」 「え、私はなんにも知りません」 「本当か」  平次はしばらくこの飛び上がりな娘と睨み合いました。すっかり自尊心を失って、ときどき痙攣的《けいれんてき》に顫えておりますが、蒼白く引き締った顔は旗本屋敷などにはない不思議な魅力です。 「親分、勘弁してやって下さいよ。可哀想に」  ガラッ八はたまり兼ねて助け船を出しました。フェミニストの八五郎はこの上お関の困惑するのを見てはいられなかったのです。 「馬鹿ッ」 「ヘエ——」 「お前は外へ行ってみろ。先刻《さっき》の十文字になった竹は、もう隠された頃だ。あの竹が見えなくなったら俺を呼べ」 「ヘエ——」  八五郎は飛んで行きました。 「お関、今お前の父親の仇を討ってやる。見ているがいい」 「……」  そんな事を言う間もなく、外から八五郎の恐ろしくでっかい咳払《せきばら》いが聴えます。     七 「御用ッ」  平次が飛び付いたのは、掛人《かかりうど》の宇佐川鉄馬でした。 「あッ、何をするッ」 「宇佐川鉄馬、御用だぞ。お篠を殺し、午吉《うまきち》を殺したのはお前だ」 「何を馬鹿なッ」  宇佐川鉄馬は小さい身体を跳《おど》らせると、苦もなく生垣を越え、四角な顔を醜《みに》くく歪《ゆが》めたまま、逃げ腰ながら一刀の鯉口《こいぐち》を切ります。 「殿、御用人、——悪者はこの野郎ですよ。縄付を出して構いませんか。それとも追い込んで、槍玉にでも上げますか」  縁側へ出て来た、大坪石見と、小峰右内の方を見ながら、平次は用心深くこう言いました。  人の好い大坪石見はハタと当惑した様子です。縄付を出す不面目を考えないわけではありませんが、手いっぱいに暴れられると、大坪石見の手でこの男の成敗などは思いも寄りません。 「それじゃ縛ってしまいましょう。人別を抜いて、午吉殺しで処刑すれば」  平次は先の先まで考えながら、ジリジリと生垣に迫ります。いつの間に廻ったか、ガラッ八の八五郎は、鉄馬の退路を断って、後ろから十手を光らせて、機会を待っているのです。 「畜生ッ、どうするか見やがれ」  宇佐川鉄馬は一刀をギラリと抜くと、一気に縁側へ襲う様子を見せましたが、平次の構えの並々ならぬのを見ると、諦めたものか、いきなり肌をくつろげて、ガバリとその切尖を自分の腹へ——。 「あッ」  おどろき騒ぐ人々、それを尻目に、宇佐川鉄馬は声を絞りました。 「えッ、寄るな寄るな。腹を切ってやるのが、せめてもの志だ。手いっぱいに働けば一人や二人は斬れたが——」 「待て、待て、鉄馬」  縁側の大坪石見の頭には、咄嗟《とっさ》に隠された娘の行方の事が閃《ひら》めいたのです。 「その代り、俺が死んでしまえば、浜路は誰も気の付かぬところで飢死だぞ。この鉄馬という近い身寄りがありながら、大坪家の跡取りにも、娘の婿にも考えなかった罰だ。ヘッ、ヘッ、ヘッ、ヘッ」  凄惨《せいさん》な血の笑いが頬にこびり付いて、そのまま死の色が上へ刷《は》かれて行くのです。あたりは次第に暗くなりました。 「鉄馬、それは罪が深いぞ——鉄馬、頼むから、浜路のいる場所を教えてくれ」  縁側から跣足《はだし》のまま飛び降りて、大坪石見は生垣越しに、死に行く甥に声を掛けました。 「ヘッ、ヘッ、ヘッ、親も親なら、娘も娘だ——思い知るがいい」 「鉄馬」 「十何年間冷飯を食わして、散々コキ使いながら、それで恩を施したつもりでいるんだろう。雇人ならとうに飛び出している」 「鉄馬」 「見るがいい。浜路はどうせ、この俺と一緒に死ぬのだ。いや、俺よりおくれても、一日とは生き伸びまい。——あんなに弱っているんだから、ヘッ、ヘッ、ヘッ、ヘッ」 「鉄馬、頼む、浜路を助けてくれ」 「嫌だ」 「鉄馬」 「……」 「鉄馬」  大坪石見が生垣を押し破って飛び付いた時は、宇佐川鉄馬は、喉笛《のどぶえ》を掻き切って、こと切れておりました。  その後の騒ぎは大変でした。後始末もさし措いて、あと一日とは生きないという、娘の浜路の行方を、必死になって捜したのです。  宇佐川鉄馬の出廻る先は、夜中ながら一軒残らず手を廻しました。隣近所は、恥も外聞もなく訊き歩かせました。が、どこにもいません。土蔵も物置も、天井も床下も、わけても宇佐川鉄馬の居間は、嘗《な》めるように捜しましたが、娘一人隠すほどの場所もなく、簪《かんざし》一つ、紐一本落ちてはいなかったのです。一と晩の努力も空しくて、夜は白々と明けました。 「平次、何とか相成るまいか、浜路は当家のたった一と粒種だ。千万金を積んでも、この石見の命に替えても捜し出さなければならぬ」  大坪石見は、平次の前に手を突いて頼み込んだのです。 「あっしでも、この上の捜しようはありませんよ。宇佐川鉄馬さんの怨《うら》みだ。十何年も居候をしていた人じゃ、変な気にもなるでしょう」 「どうすればいいのだ、平次」 「よく弔《とむら》って上げて下さい、——それっきりの事ですよ。ところで」  平次は深々と腕を拱《こまぬ》きました。 「親分」 「お前は黙っていろ」 「あっしは変な事を考えたが」  と八五郎。 「なんだ」  平次はガラッ八の方をジッと見ました。 「お嬢さんの隠された場所が判ったような気がするんです」 「俺も判ったような気がする」 「二人で書いてみましょうか」 「面白かろう」  紙にも硯《すずり》にも及びません。平次は火鉢の灰へ、八五郎は縁の下の柔かい土へ——。 「ひイふのみ」  火鉢と縁の下と、位置を変えてのぞくと、二人とも、  ——長持《ながもち》の中——  とこう書いてあったのです。  それっと飛んで行って、お関のいる部屋の隣。嫁の道具を一パイに積んだ下から、長持を引き出して蓋を払いました。 「あッ」  中には娘浜路が滅茶滅茶に縛られた上、猿轡《さるぐつわ》まで噛まされて、息も絶え絶えに、半死半生の身を横たえていたのでした。 「八、どうして長持の中と判った」  帰り路、朝の清々《すがすが》しい風に吹かれながら、平次は訊きました。 「ただなんとなしに、そんな気がしましたよ」 「心細いなア」 「じゃ親分は」 「長持の蓋《ふた》の角に生々しい傷があって、穴があいていたことに気が付いたんだ。祝言前の嫁の長持に穴があるわけはない。あれは息抜きに違いないと気が付いたのさ」 「なアーる」  八五郎はピタリと額を叩きました。親分の推理に、ともかく直感で追い付いた自分が嬉しかったのです。 「ところであの居候は可哀想だね」 「あんな悪い野郎が?」 「十何年も給料のない奉公人並に扱われて、気が少し変になったのさ」 「それから、あのお関も可哀想じゃありませんか」  ガラッ八は臆面《おくめん》もなくこんな事を言うのです。 「せいぜい親切にしてやるがいい。親父が殺されて、たった一人になったんだから心細かろうよ。しょんぼりと帰って行った姿が目に残るぜ。もっとも顔は綺麗だが心掛けはあまり結構じゃない」  そんな事を言いながら、二人は妙に物足りない心持で神田へ急ぐのでした。   (完)